凍りついた秒針





承太郎さんの手首で時を刻み続ける、白く美しい文字盤。かなり年季の入ったタグホイヤーの腕時計は中学生の頃から愛用しているもので、何度か動かなくなるたびに修理して使い続けているらしい。
いくら実家が金持ちだからと言って、中学生でタグホイヤーは少し早すぎる気もするが。あまりブランドにこだわりはなさそうなので、誰かからのプレゼントという可能性もある。
しかし彼はもう大人で、自分の稼ぎで新しい腕時計を買うこともできる。それなのに、古い腕時計にここまで執着する理由は一体何だろう。


***


仗助から相談を受けたのは今日の昼過ぎで、待ち合わせ場所のオープンカフェに向かうと仗助は深刻そうな様子で頭を抱えていた。まだ何も注文していないのか、テーブルには 水の入ったグラスが置いてあるだけだ。
近づいたぼくに気付くと、急に呼び出して悪いなという言葉と共に苦笑いを浮かべた。そしてすぐに重苦しいため息をつく。

「実は先週から、承太郎さんの様子がおかしいんだ。なんつーか、話しかけても反応鈍いしおれの話にも上の空で……何かあったのか聞いてみても、教えてくれねえんだよ」
「言っておくが、ぼくは何も知らないぞ」
「そうか……でもよ、あの人ってどっか危うい雰囲気あるだろ。急にふらっとどこかへ消えちまいそうな、猫みたいな」

上手いこと言ったような調子で例えているが、ぼくはそこまで承太郎さんについて深く考えたことがないので同意はできない。猫というより狼のイメージだ。
仗助は承太郎さんを、彼がいかに美しくて色気があって目の離せない存在であるかを熱っぽく語り始めた。ぼくを呼びだした理由からずれてきていないか? 注文したコーヒーが出てこないうちから、 もう帰りたい気分になる。
それから30分後、ようやく仗助から解放された。何か分かったら教えてくれと頼まれたが、仗助にすら話さない事情を他人のぼくに承太郎さんが打ち明けるとは思えなかった。
代金を払った後、せっかくなのでカメユーマーケットで買い物をして帰るつもりだったぼくの足は、無意識に予定とは違う場所へと向かっていた。


***


開いたままのドアを閉め、ぼくは足元に倒れている承太郎さんのそばに座りこんだ。彼の頬は本のページのように捲れ上がり、そこには今までの経験や抱いた感情などが細かい字でびっしりと書かれている。
好きなものを語っている時以外はあまり饒舌ではないが、その胸の内では様々なものが渦巻いているのが分かる。正直、こうして彼を読んでみたいと思ったことは何度もあった。
意識のある承太郎さんの指が、かすかに動く。薄く開いている目はまるでぼくを咎めるようにこちらを射抜いているが、今の承太郎さんにぼくをどうにかする力はない。
ページを捲ると、気になる箇所を見つけた。そこを読み進めていくうちに、さすがにぼくも動揺して手が止まってしまった。最近の承太郎さんがおかしい理由、そしてそこから繋がっている事実。 これは仗助には話せない。絶対に話せるはずがない。仗助だけではなく、おそらく誰にも。
今の出来事は全て忘れる、と書きこんだ後でぼくは承太郎さんの部屋を出た。


***


「人の記憶を読んで首を突っ込んでくるとは……君は悪い子じゃのう」

ジョースターさんは穏やかな表情を崩さぬまま懐から何かを取り出し、テーブルの上に置いた。金属が擦れる小さな音。これは間違いなく、何度か見た承太郎さんの腕時計だった。

「やっぱりあなたが持っていたんですね」

仗助すらも巻き込んだ、全ての原因はこれだ。承太郎さんはこの腕時計を失くしてから様子がおかしくなった。こうして問い詰めた結果、予想通り犯人はジョースターさんだった。
先ほど承太郎さんの記憶を読んだ限りでは、自分の祖父の仕業だとは考えていないようだ。朝でも夜でも、これまで立ち寄ったと思われる場所を探しまわっている。仕事も手につかなくなるほど、ずっと大切にしてきたのだから。

「いつかは飽きて新しい物を買うと思っていたが……まさか、まだ使い続けているとは」
「ずいぶん無責任に聞こえるんですが」
「責任? わしが承太郎にこれを譲ったことに、深い意味はないよ」

眼鏡の奥の目が、正面のぼくを見据える。
中学生になったばかりの承太郎さんに、ジョースターさんは今まで使っていた腕時計を贈った。その頃からうっすらと祖父に対して特別な想いを抱いていた承太郎さんは、 それ以来ずっと他の腕時計は身につけていない。恐ろしいほど一途に。

「どうしてこれを承太郎さんから奪ったんですか」
「記憶を読んだということは、わしとあいつの過去についても知っとるんじゃろ」
「……はい」
「あいつは結婚して、子供もできた。いつまでも昔の思い出にとらわれているのは良くない」

承太郎さんは高校時代、危篤状態の母親を救うためにエジプトへの旅に出た。その途中で祖父であるジョースターさんと深い関係になったのだ。ぼくが遡って読んだページには、当時の感情が生々しく刻まれていた。 宿のベッドでジョースターさんに抱かれている最中も、腕時計を外さなかったという。
忘れさせるために腕時計を盗んだらしいが、あの様子だと余計に忘れられなくなる。日が経つにつれて心の均衡を崩してしまうだろう。想像すると痛々しいくらいに。
誘ったのは承太郎さんだったが、結局流されたのはジョースターさんだ。なのに孫の結婚を言い訳にして今更全て忘れろとはあまりにも身勝手だ。

「そもそも露伴君は、どうしてこの件にここまでこだわるのかね?」
「それは……」
「まあ、ただの好奇心じゃろ。無関係の君に責められる筋合いはないよ、これはわしと承太郎の問題だからな」

静まり返ったホテルの部屋で、ぼくは密かに唇を噛んだ。確かに承太郎さんの記憶を暴いてまで踏み込んできたぼくに、ジョースターさんをとやかく言う資格はない。
ぼくはこれからどうしたかったのか、目的を見失っていた。昔の出来事とはいえ、許されない一線を越えた祖父に対する承太郎さんの執着は相当なものだ。承太郎さんの元に腕時計が戻ったとして、全てが丸く収まるとは限らないのだ。
文字盤の針は動きを止めたままで、進む気配はなかった。




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2012/2/5