初恋





「箸の使い方、きれいですね」
「……そうか?」
「やっぱり育ちが良いからかな」
 向かい合って食事をしている露伴はそう言うと、再び茶碗の中の白飯を口に運ぶ。
 父親は仕事で家を空けることが多かったため、幼い頃に箸使いを教えてくれたのは主に母親だった。あの性格なので特にマナーに厳しいわけではなかったが、気が付くとどこに呼ばれても困らない程度の作法は身に付いていた。これでも高校に入るまでは喧嘩や警察には無縁の、礼儀正しい素直な子供だったのだ。いつの間にか道を踏み外していたが。
 町の本屋で露伴と偶然顔を合わせた後、食事に誘ってみるとあっさりとOKが出た。あんたとふたりで飯が食いたい、と少々思わせぶりな誘い方をしてみても、露伴は何の戸惑いも動揺も見せなかった。これは特別な存在として意識されていない証拠だろうか。
 時間が悪かったのか町のレストランはどこも混雑していたため、露伴の自宅に招かれるという予想外の展開になった。作ってくれたのは承太郎からのリクエスト通り、久し振りの和食だ。アメリカではめったに味わえない、懐かしい味噌汁の香り。魚の焼き加減も絶妙だった。
「そういえばあんたは、付き合っている奴はいるのか」
「ぼくですか? 今はいないですね……あ、でも急に思い出してしまいました。初恋の話」
 露伴の初恋と聞いて、承太郎の頭に浮かんだのは杉本鈴美だった。遠い昔にこの町で命を落とした幽霊だが、幼い頃の露伴からプロポーズされたという可愛らしい思い出話を聞いたことがある。
「相手は、ぼくより4つ年上の人妻でした」
 てっきり鈴美だと思い込んでいた承太郎は驚いて箸を止めた。年上というだけならともかく、まさか既婚者の女だとは。
「ちょっと気性が激しくて振り回されたりしましたが、その人が流す涙は美しくて、守ってあげたいと心の底から思いました。でもね、今考えると無謀でした。だって人妻ですよ? ぼくがどう頑張っても報われることはないんだから」
 遠回しに『あなたと恋愛する気はありません』と告げられている気がした。確かに自分は既婚者で、アメリカには妻子がいる。そんな立場で露伴に告白したとしても、喜んで受け入れられるとは思えない。
 そもそも互いに男なのだから、今抱いているこの感情自体がおかしいのだ。
「あの人と会えなくなってからは、しばらく何も手に付かなくて。辛かった」
 それ以上食べる気にはなれないのか、露伴は静かに箸を置いて目を伏せた。出会って以来、初めて見る表情だった。
 初恋の思い出を語る露伴の心は、人妻への想いで満たされているだろう。まだ高校生の彼が経験した禁断の恋。完全に露伴の片想いで、身体どころか唇すら重ねることなく終わったという。人妻は露伴の前から突然姿を消し、再び戻ることはなかった。
 他には誰もいない、ふたりきりの時間。こうして一緒に過ごすほど欲しくなる。もし感情のままに行動して奪ってしまえば、以前既婚者に恋をして辛い目に遭ったらしい露伴に、再び同じ傷を負わせることになる。
 想いが通じ合ったとしても、いずれ承太郎は露伴と別れてアメリカへ戻らなくてはならない。かつての人妻と同じように、彼をひとり置き去りにして。
 しかし、別れたくないと縋ってくる露伴を想像した途端、信じられないことに興奮してしまった。顔も名前も知らない例の人妻に密かに嫉妬した直後のせいか、変わり者で有名な目の前の青年に対して生まれた、歪んだ欲望が止まらない。それを表に出さないように、懸命に抑えた。
「思い出させて、悪かった」
「……いえ、いいんです。ぼくのほうから切り出したんだから。気にしないでください」
 恋に溺れる露伴の姿は、一体どんなものだろう。手を伸ばせば届く距離にいる露伴に触れて、苦い思い出を忘れるくらい夢中にさせたい。




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2013/1/4