初恋のすべて





 保管していた膨大な量のスケッチブックから彼がその1冊を選んだのは、ただの偶然か。
「あんたはこの女に惚れていたのか」
 承太郎さんはスケッチブックの中のあるページを開いて見せながら問い掛けてきた。日付なんか確認しなくても覚えている、まだ17歳の高校生だった頃の夏休み、祖母が経営していたアパートで出会った女。承太郎さんはそういう方面には無関心だと思っていたので、ストレートに指摘されたぼくは動揺してしまった。しかしそれを見抜かれてしまったら最後だ。
「承太郎さん、ぼくが女をモデルにしたことは何度もありますし、そのたびに好きになっていたらキリがないですよ」
「いや、違う。この女はあんたにとってはただのモデルじゃあない。そうだろう?」
「何勝手に決めつけてるんですか」
 冷静になろうとしたが、無意識に顔が引きつるのが分かる。もう限界だ。一体この絵のどこに、ぼくの恋心を想像させる部分があるんだ。
「……彼女は高校時代に出会った、ぼくの初恋の人です」
 観念して告げた言葉に、承太郎さんは表情を固くした。彼の眉間の皺は、例の初恋相手が人妻だったことを語ると更に深くなる。
 大きなため息をつくと閉じたスケッチブックをぼくに突き出し、こちらに背を向ける。急に押し掛けて悪かった、と言葉を残して部屋を出て行った。


***


 泣いていたかと思えば急に激怒したりと、当時のぼくはあの人の極端すぎる性格にいつも振り回されていた。それでも愛想を尽かすどころか、そんな彼女を守ってあげたいという気持ちのほうが勝っていて、子供なりに本気だった。想いをこめて描いた原稿を罵倒と共に引き裂かれても、ぼくはその光景を眺めながら呆然とするばかりで、彼女を責める気にはならなかった。
 真夏の日差しを浴びた瑞々しく美しいあの人の姿。最初はそのつもりはなかったのに、気が付くと紙の上で鉛筆を走らせていた。
 藤倉奈々瀬がぼくの前から消えて約3年、忘れなければと思いながらもこのスケッチブックを処分することはできなかった。そのページだけを破いて捨てることすらも。


***


 あれから数日後、承太郎さんから電話で呼び出されて彼が泊まっているホテルに向かった。またふたりきりになると思うと、胸が妙にざわめく。
 承太郎さんのことは出会ってから結構早い段階で気になっていた。その辺の連中とは違う、比べものにならないくらいの圧倒的な存在感。知識も経験も豊富で、彼について知れば知るほど興味がわいてくる。左手の指輪さえなければもっと積極的に誘って口説いて、深い関係に持ち込む展開もあっただろう。しかし、既婚者との恋愛が決して幸せな結末にはならないことをぼくはすでに痛いほど分かっていた。
 勝手すぎる願いだが、我慢できなくなったぼくが暴走しないうちに、早くアメリカに帰ってほしいとも思っている。ずっと描きためてきたスケッチブックを整理している時に突然訪ねてきて、うっかりそれらを保管している部屋に承太郎さんを入れてしまったのが間違いだった。
 ぼくの昔の絵を見たいと言われて断れなかったのだ。自分の作品に興味を持ってくれる人間にはついガードが緩くなる。特別に意識している相手なら尚更だ。
 初恋の話を聞いた途端に素っ気なく帰っていった、承太郎さんの気持ちが分からない。
 ホテルのエレベーターを降りて承太郎さんの部屋のドアをノックすると、すぐに開いて中へ招き入れられる。まるで待ち構えていたかのように。
 テーブルを挟み、彼の向かい側のソファに腰掛けると何故か緊張してきた。ただの雑談ならオープンカフェやホテルのロビーでも可能なはずで……いや、承太郎さんのことだから別に深い意味はないのだろう。正面に座っている彼が視線を足元に向けながら、ずっと沈黙しているのは気になるが。
「なあ、先生」
「はい?」
「ここ最近ずっと考えていたんだが、ようやく答えが出たんだ。聞いてくれ」
 ようやく顔を上げた承太郎さんはぼくを強い眼差しで見つめながら、一呼吸置いた後で再び唇を開いた。
「あんたが好きだ」
 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。ここに来る前までおかしなことを考えていたせいで聞き間違えたのかもしれないが、急にぼくのそばに歩み寄ってきた承太郎さんを見て分かった、やはり告白されたのだ。有り得ない現実に思考が追いつかない。
「……ぼくをからかってるんですか?」
「おれは本気だ」
 わけがわからない。伸ばされた手を避けるようにぼくはソファから立ち上がり、承太郎さんから数歩離れた。一体その手でぼくをどうするつもりだった?
「承太郎さん……この前ぼくの家でお話したこと、覚えてます?」
 あれを聞いていたのなら、妻子ある身でぼくに手を出す気にはならないはずだ。そう思うのは間違っているだろうか。この気持ちはぼくの一方通行のまま、何も知らない承太郎さんはアメリカに帰って全て終わりになれば良かった。
「人の女に惚れた挙句に捨てられた、かわいそうなガキの話だろう?」
 承太郎さんは何でもないことのように答えた。数分前にぼくを好きだと告げたその口で。
 あまりにも無神経な言い方にぼくは絶句した。やがて腹の底から生まれた激しい怒りに任せて承太郎さんを殴った。しかし彼は少しもよろけることなく、殴られた頬をこちらに向けたまま眉をひそめただけだ。こんな奴を少しでも意識していた自分自身が情けない。殴った利き手がどうしようもなく痛む。
「あんたさあ、ぼくのこと何か勘違いしてるんじゃあないのか?」
 この男にぼくの思い出を、初恋を、汚された。
「好き勝手言っても許されると思うなよ、ぼくだって人間なんだよ!」
 怒声を上げた後、ぼくは肩を上下させながら呼吸を荒げた。睨んだ先で、承太郎さんはかすかに青く染まった頬にも構わず、こちらを見下ろしている。
「もういいでしょう、帰ります」
「さっきは言いすぎた。先生の話に出てきた、相手の女に嫉妬したんだ」
 部屋から出て行こうとしたが、思わず足を止めた。
「その女は、おれの知らねえあんたを知ってるんだろう。そう思うと抑えられなくなった」
 おれにも見せてくれ、と背後から囁かれて身震いした。この落ち着いた低い声もたまらなく好きだ。先ほどまでの怒りが薄れ、どうにでもしてほしいという気になってしまう。
「あなたもいつか、ぼくを置いて帰るくせに」
「確かにずっとこの町にいることはできねえ。おれはあんたをまた辛い目に遭わせる」
 それを分かっていながら、ぼくを手に入れようとしている彼は大した男だと思う。このまま流されて、既婚者を相手に苦い経験をしたはずのぼくは、また同じ過ちを繰り返すのか。
 逃げずにいると強く抱き締められ、承太郎さんの匂いに包まれた。恐ろしいほど甘くて、誰にも救えないほど最低な檻の中に、完全に閉じ込められてしまった。
「忘れろとは言わねえ。あの恋があってこそ、今の先生がいるんだろう」
 それをあんたが言うなよ白々しい。悪意を込めて口に出そうとしたが突然のくちづけに塞がれて声にならなかった。目を閉じると広がった暗闇の向こうに、ぼくに許しを乞いながら走り去っていく女の姿が浮かんだ。それが3年前の夏休みに訪れた、ぼくの初恋の全てだった。




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2013/2/10