異国の空の下で





みっともなくて恥ずかしいことだとは分かっていても、割り切って忘れられそうもなかった。
せめてあと1度だけでも顔が見たい、目を見て話せなくてもいい。そんな愚かな衝動に背中を押されて、アメリカまで来てしまった。 自宅の場所は知っている。後はどこからどうやってこっそり承太郎の姿を眺めるかが問題だ。
最低限の荷物だけを詰め込んできたグッチのバッグを片手に、住所を書いたメモ用紙に視線を落とす。かなり近くまで来ているせいで、心臓が落ち着かない。
あなたの顔が見たかった、と面と向かって言えば間違いなく苦い顔をされるだろう。昔の愛人に自宅近くまで押しかけられて、歓迎するような人間はおそらくいない。完全にストーカー扱いされる。
最後の夜、もっとよく顔を見ておけばよかった。形のあるものは残さないという取り決めがあったので、承太郎から貰った物は何もない。胸に残っている思い出以外は。 しかしそれも少しずつ薄れていき、いつかは声も顔も思い出せなくなるのだろう。今では考えられないが、長年会わない限りその時は確実に訪れる。
考えごとをしていたせいで、前方からぶつかってきた誰かの存在に気付かなかった。白いワンピースを着た小さな子供だ。ごめんなさい、という言葉と共に上げたその顔を見た瞬間に露伴は凍りついた。 いつか承太郎が泊まっている部屋で見た写真の中心で、無邪気な笑顔で写っていた父親似の少女。

「徐倫、走るんじゃない」

どこからか聞こえてきた声が、騒がしい街の中でもはっきりと露伴の耳に届いた。別れた今でも忘れられない男の声。
陰から気付かれないように眺めるだけで満足だった。会って話す気はなかったのだ、しかも心の準備すらできていないこんな唐突すぎるタイミングで。
少女の父親が来る前にここから逃げなくては。会ってしまえばどうなるか分からない。未練がましく追ってきた事実を知られたくなかった。
震える手から落ちたメモ用紙を拾い上げ、差し出してきた少女に背を向けて露伴は気力の全てを振り絞って走った。住所が書かれたあの紙が原因でばれてしまうかもしれないが、 もし電話か何かで尋ねられてもごまかす気でいる。そもそもあの男が露伴の筆跡まで気にして覚えているだろうか。なので自分の都合の良い方向に考えることにした。
顔は見られなかったが声は聞けた。本来の目的は果たしていないが、もう充分だ。このまま日本に帰って原稿の続きを描いて、それから……。
ここまで来れば大丈夫だと気を抜いた途端、背後から突然肩を掴まれて足が止まる。妄想として片付けるには、あまりにも生々しすぎるほどの強い力だった。

「やっぱりあんたか。どうしてここにいる」

ただの取材旅行だと説明したかったが、もしあのメモ用紙を見られていたら通じない嘘だ。
本人から直接聞いたわけではなく、スタンドを使って暴いた住所が書かれているあれを。

「答えろ、露伴」

責めるような鋭い口調で名前を呼ばれる。答えが上手くまとまらず、振り向く勇気もない。




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2012/2/21