保健室で逸脱/2 ノックの後で開いたドアから入ってきたその人物を見て、それまで机に頬杖をついていた露伴は慌てて姿勢を正す。そして忘れずに、白衣のボタンを閉めた。 教師だろうが生徒だろうが常に平然としている露伴だが、彼だけには頭が上がらない。そんな相手はこの校内でたったひとりだけだ。 「校長先生……」 「いやー、何となく露伴君の顔が見たくなったんじゃよ。なーんてな」 慣れた調子で片目を閉じて、口説き文句のようなことを言う。本気にしていてはキリがないので、いつも通り軽く受け流した。 この学校の全てにおける権限を持つ校長、ジョセフ・ジョースター。少々軽い性格だが頭の回転が速い。職員室でもどこでも、彼に関する悪口は誰からも聞いたことがない。 仲の良い同僚のいない露伴を心配しているらしく、こうして時々様子を見にくる。他人にあれこれ干渉されるのは嫌いだが、ジョセフのことは鬱陶しいとは思わなかった。 どんなに警戒しても、いつの間にかペースに引き込まれてしまっている。不思議な人だと思う。校長だから頭が上がらないのではなく、彼が持つ雰囲気がそうさせるのだ。 ジョセフは露伴が持ってきた椅子に腰掛けると、保健室の中をぐるりと見回した。 「最近、うちの孫がここにお邪魔しているそうじゃな」 「空条ですか、2年の」 「そうそう、今までわしがいくら言っても真面目に学校へ来なかったあいつが……娘も驚いているよ。好きな子でもできたのかしらってな」 冗談ぽく言って笑うジョセフに、露伴は複雑な気分になった。 好きな子って何だ。たまにこの保健室に来ていることとは関係ないと思うが、転びそうになって支えられた時のあの感覚を思い出しては心が乱れる。 1秒でも早く振り払わなくては、取り返しがつかなくなるところだった。 「ところで、露伴君」 真顔になったジョセフに呼ばれて我に返る。彼は恐ろしいほど勘が鋭いので、気持ちの動きを読まれたかもしれない。 「わしにも一杯ごちそうしてくれんかの、君の淹れたコーヒー」 「えっ、あ……はい」 予想とは違う展開になり、気が抜けてしまった。胸の内で張り詰めたものが解けていくのを感じながら、椅子から立ち上がり新しく買ったコーヒー豆の袋を開けた。 「何の用だ」 「あんたの顔が見たくなった」 「帰れ」 翌日までに提出しなくてはならない書類にボールペンを走らせていると、ノックもなしにドアが開いて承太郎が入ってきた。 この忙しい時に、ふざけた理由で訪ねてきた生徒の相手までしていられない。そんなに暇なら、普段まとわりついてきている女子生徒達を構ってやればいい。 書類から顔を上げずにいると、仕事机に近づいてきた承太郎に顔をのぞきこまれた。なるべく目を合わせないようにしているのに、これでは台無しだ。 「じじいには愛想振りまいてるくせによ」 「お前とあの人は違う、説明しないと分からないか?」 「聞きたくねえ」 机越しに伸ばされたごつい手が、露伴の顎をとらえた。今日初めて、しっかりと視線が重なる。動揺した隙に寄せられた唇の感覚に、身も心も熱くなった。 高校生という年齢に似合わない、貪欲な深いキスだった。こちらはいい歳をした大人なのに、いつまでも翻弄されているわけにはいかない。思い切って唇の端を噛んでやると、 ようやく解放された。 噛まれた瞬間に小さく声を上げた承太郎は、露伴から身を離すと唇からにじんできた血を舌先で舐め取る。露伴は険しい顔をして、承太郎を睨んだ。 「この僕を、その辺の女と一緒にするな!」 「これくらいで大騒ぎしやがって、もしかして慣れてねえのか」 「はあ!?」 挑発されていると思った。しかも年下の高校生に。ちょっとくらいキスが上手いからといって、こちらを見下すような態度が気に食わない。 「なるほどな……僕を煽って、そういう方向に持ち込む気だろう。ガキらしい安易な考えだ」 露伴は薄く笑いながら、かちかちと音を立ててボールペンの先を出したり引っ込めたりを繰り返す。僕を甘く見るな、と逆上して承太郎を押し倒す自分の姿を想像してしまった。 もし怒りで理性を失っていたら、想像ではなく現実になるところだった。校医と生徒がいかがわしい関係になるのはまずい。しかも相手は校長の孫だ。 しばらく黙りこんだ承太郎は、帽子のつばを下げながら再び口を開いた。 「あんたの言うとおりだ」 「認めたな?」 「昨日、じじいがあんたに優しくしてもらった話を聞いて嫉妬した。悪い」 やけに素直に本音を明かしてきたので驚いた。しかも自分の祖父に嫉妬という、普段の態度からは想像できない子供っぽい部分を垣間見て少しだけ和んだ。特にあの、濃厚なキスの後では。 「校長は他の教師連中とは全然違うからな。人生経験も仕事の能力も、色々な面で僕はあの人を尊敬している。別に惚れてるとか、そういう目では見ていない」 「……本当か」 「何だ、信じられないのか」 隠されている承太郎の今の表情を見たくなり、露伴は立ち上がると彼の帽子をずらした。 まっすぐな視線は心にまで届いて痛いほどで、支えられた時と同じように意識してしまう。 机越しだと不安定だなと思っていると、それを見透かしたように承太郎がこちらにまわりこんできた。こんなに接近して、自分はこれからこの生徒と何をするつもりだ。 「愛してくれとは言わねえ。せめて普通に話をしてほしい」 急に謙虚になられても困る。これでは突き放せなくなってしまう。 |