くちびるの味 「それじゃ、おやすみなさい」 「……ああ」 部屋のドアを開けて廊下に出る前に、ぼくは承太郎さんと唇を重ねる。必要以上に身体には触れない、キスの時も舌は使わない。それがお互いに交わした取り決めだ。 承太郎さんが既婚者で、海の向こうでは奥さんや娘さんが待っているのは分かっていた。 それでもぼくは、ふたりきりの時にあの声で好きだと囁かれてその気になってしまった。 簡単な奴だと思われないように冷静な振りをしてかわそうとしたが、静かな部屋のとろけそうな雰囲気にやられてしまい逃げられなくなった。ぼくよりも大切にするべき人達がいるくせに、わけがわからない。 『そんな言葉、本気で信じると思ってるんですか? 奥さんいるくせに』 『どうすれば信じてくれるんだ』 『ぼくがあなたの愛を信じられるまで、耐えてみせてください』 余裕たっぷりに足を組み替えながらそう宣言したぼくに、承太郎さんは無言で眉を寄せた。こう言われて諦めてくれるならそれでもいい、所詮ぼくに対する気持ちはその程度で、 アメリカに帰るまでの性欲処理の相手としか見られていなかったのだと思い込むことができる。 そして実はぼくも承太郎さんに惹かれていたことなんかあっさり忘れられる。 分かった、と言われた途端にぼくは我に返った。何が分かったのか。 『おれはこれから、あんたに試されるってわけか。気の長いほうじゃないが、出来る限りの努力はする』 『本気、ですか……』 『あんたが言い出したことだろう』 予想外の展開になった。この時点で承太郎さんの本気を感じてしまったのだが、もう後には引けない。そしてここから、ぼくと彼の先が見えない勝負が始まった。 あれから2週間が経ち、承太郎さんはぼくと過ごす時には少しだけ距離を取っている。おかしな雰囲気にならないようにそうしているのか、ぼくを見る目には欲情のかけらも感じない。 普通の友人のように接して、キスは別れ間際に1度だけ。この瞬間を迎えるたびに、ぼくは彼に告白されたことを改めて実感するのだ。距離を取られているうちに感じるもどかしさと物足りなさが、 日増しに大きくなっていく。自分から言い出した取り決めなのに、何もかも無しにして今すぐにでも承太郎さんが欲しくなる。好きだと言っていたのだから、きっと拒まれないはずだ。 唇が離れた後は、笑顔で承太郎さんに背を向けてホテルを出る。毎回そうしてきたはずなのに、今日に限ってそれができない。唇の温もりだけでは、これからひとりになった時の寂しさを埋められなくなっていた。 「どうした」 「もう1度、してもらえますか」 ぼくがそう言うと承太郎さんは、すっと目を細めた。しばらく見ていなかった、意味深な表情。それを彼から引き出してしまった今、ぼくの負けは決まった。悔しさで身体が震える。 「どんなのがいいんだ」 「……どんなの、って」 「さっきと同じようなやつか」 あんな子供のようなキスを何度されても意味がない。欲しいのはもっと深いものだ。舌を絡ませて、濡れた音を立てながら卑猥に求め合うような大人のキス。承太郎さんとそんなことをして、 まともに立っていられるだろうか。だめになった自分を想像してしまう。 ぼくの身長に合わせて身を屈めた承太郎さんの唇が近づき、重なる。口には出していないぼくの欲望を読み取ったかのように、彼の舌先がぼくの口内に潜り込んできた。 舌先が触れ合うと、身体の奥からじわりと熱が生まれて広がっていく。苦い煙草の味が生々しく伝わってくる。想像していたよりも遥かに心を乱されて動揺した。今まで避けていた時間が惜しいと思うほど、 ぼくはこのキスの虜になってしまった。 欲しかったものをようやく手に入れ、あふれた涙が頬を滑り落ちる。 それ以上深くならないまま、承太郎さんはキスを終えるとぼくを抱き寄せ再び部屋の中に閉じ込めた。 堕落することで知った愛しさと罪悪感にまみれた味は、気が遠くなるほど甘い。 |