リセット/後編 「ぼくは、あなたの愛人でした。少しの間だったけど」 衝撃的な言葉を聞かされた承太郎は、足を止めてその場に立ち尽くした。潮の香りがする風に髪を揺らす露伴の表情には、こちらを騙してやろうという色は浮かんでいない。 落ち着くために向かった海で、更に心を乱される。バスの中で見た露伴の涙や、言葉では説明できない何かに突き動かされるままに彼をここに誘ったのが原因だとは、 分かっていた。 祖父や仗助との露伴に関する会話が噛み合わず、どうすることもできない苛立ちばかりが大きくなる。直接本人に話を聞く、それしか解決できないだろう。 おれはあんたはどういう関係だったのか。海のそばを歩きながら、絞り出した問いかけに露伴はしばらく何も答えなかった。最初はただの知り合いだと思い込んでいたが、 どうやらそれは間違いだった。バスで見せた露伴の様子は、どう考えてもただの知り合いに対して見せるものとは違っていた。 「……愛人?」 それが事実なら、海の向こうに妻や娘がいる自分はとんでもない罪を犯していた。確かに妻とはすれ違いばかりで上手くいっているとは言い難い雰囲気だったが、まさか同性 の愛人を作っていたとは。しかし露伴とそれらしい行為をした記憶はない。そうなると、ひとつの予想が浮かび上がった。 「あんた、おれの記憶を消したな」 「……」 「こんな真似ができるのは、知ってる限りではあんたしかいない」 問い詰めると露伴は戸惑っていたが、やがて覚悟を決めたような強い眼差しを向けてきた。 「むしろ、もっと早くこうするべきだったのになかなか踏み出せなかった」 「認めたついでに、理由も聞かせてくれ」 「理由って……そんなの、こんな関係をいつまでもだらだら続けていたって仕方ないからですよ。面倒なのはもうたくさんだから」 「辛いのも面倒なのも、と聞こえたが。さっきは」 都合の悪い部分はなかったことにしたいらしい露伴の台詞に訂正を入れる。時々近くを走っていく車、そして波の音。時間の流れと共に、無意識のうちに露伴の手で 消されていた事実が明らかになっていく。 自分は一体、どのような気持ちで露伴との日々を送っていたのだろう。その記憶を全て消されてしまった今では想像すらできないが、 電話で妻からの叱責を受け続ける中で、愛人だったという彼を心の拠り所にしていたのか。おそらく身体を重ねたこともあるに違いない。 先ほどはためらっていた手を伸ばし、露伴の頬に触れる。肩が小さく跳ね、かすかに喉が動くのを無言で眺めた。宿泊先のホテルにいるよりもずっと心が安らぐこの場所で、彼に対して抱いていた 印象が揺れて別なものに塗りかえられていく。跡形もなく消されて何も残っていない部分に、新しい感情が芽生えるのがはっきりと分かった。 「何もかもひとりで抱え込んで、どうするつもりだった?」 「少なくともあなただけは、ぼくと出会う前の生活が送れる。手遅れになる前に今の家族を大切にして、それから」 「答えになっていない」 「じゃあ、どう言えば満足するんですか!」 「知りたいのは、あんたの本心だ。少しの間でも、おれのことを愛していたんだろう? 今は冷めたのか。それとも本当は、まだ」 「もう……聞きたくない」 限界だと言わんばかりに承太郎の手を避けて逃げようとする露伴の手首を掴んで、引き寄せる。強く抱いた細い身体は、驚くほどこの腕の中に馴染んだ。初めて感じるはずの 温もりが、肌の奥まで染み込んでいくようだった。 「こんなことをされたら、あなたの記憶を消した意味がなくなる。何日も悩んでようやく決意したのに」 これまでされるがままだった露伴が自ら、承太郎にしがみつき身を委ねてきた。 記憶を消したのは心の底から割り切った末の決断ではなかったのかもしれない。そうでなければ、露伴はどんな手段を使ってでもこの腕から逃げ出しているはずだ。きっと彼ならそうすると、何となく思う。 この辺りの住民らしい若い夫婦が、男同士で抱き合っている異常な光景を凝視しながら通り過ぎていく。それを視界の端に映しながらも、今は空白になった記憶を埋めようと必死になっていた。 「全部話してくれ。おれとあんたが、愛し合うようになった経緯を」 鋭い形のイヤリングが揺れる耳にそう囁くと、露伴は一呼吸置いて語り始めた。暗い空の下、雨が降り続く杜王町を傘もささずに歩いていた承太郎を見つけた時の心境を。 あの瞬間からそれまでの日常は音もなく崩れ、全てが始まったのだと。 |