視線の先で





自分にとって誰よりも何よりも大事なものは、昔からたったひとつだけだ。
決していかがわしい関係ではないと誓って言える。しかし曖昧なままでは良くない気がして今日は、自分なりに決着をつけるために承太郎が泊まっている部屋まで来た。
居酒屋で酔った勢いで愚痴をこぼすという醜態を晒したり、承太郎の幼い頃の写真をジョセフに見せてもらったり、唐突に漫画の感想を言われたりと、そのような出来事が 積み重なっていくうちに、一緒に居る時間が長くなっていった。
法律的にも許された男と女の関係ですら絶対など有り得ないのに、よりによって男同士で幸せな結末など迎えられるはずがない。 独身の露伴はともかく、承太郎はアメリカに帰れば自分の家族が待っている。陳腐なドラマで見かけるような、どろどろとした厄介事はごめんだ。

「僕にとって一番大事なのは漫画です、誰にもそれを崩されたくない」
「何故それを俺に言うんだ?」
「言わなきゃならない相手だと思ったからです」
「俺とはもう会いたくねえって意味か」

承太郎と会えば会うほど自分は自分ではなくなっていく。それを露伴は時が経つごとに少しずつ、確かに自 覚していた。だからここでどうにかしなければならない。しかし上手い方法が浮かばなかった。
肝心な時に思い通りに回らない頭が、ここから動けない身体がもどかしかった。やはり出直したほうがいいかもしれない。これは想像以上にこじれてしまいそうだ。

「もう帰ります」
「おい、待て」
「何なんですか……腕、離してもらえますか」
「俺の質問に答えてないだろう、言いたいことばかり言って逃げる気か」
「誰が逃げてるんですか、人聞きの悪い。僕の言いたいことは、もう伝わったと思いますが」
「あいにく俺は、あんたが思っているほど物分かりのいい人間じゃないんでね」

露伴の腕を握ったままの承太郎の手に、ますます力が入るのを感じて露伴は動揺した。
承太郎に対して ではなく、このままだと言いたくないことまで口に出さなければならない状況になってしまうのが。

「だからはっきり言え、俺とはもう会いたくねえのか」
「あなたといると、僕は……どうにかなってしまう」
「よく分からねえな」
「鈍感だって言われたことないですか? それとも無神経なんですか」
「俺より、一方的に吐き出して逃げようとするあんたのほうが無神経だと思うが」
「……僕が、何だって?」
「無神経の上に、卑怯者だな」

ぎりっ、と掴まれた腕に更に力が入り、露伴は痛みで思わず小さく声を上げてしまった。
無神経だの卑怯者だのと言いながら、承太郎は露伴の腕を離そうとしない。失望したのならさっさと離せば いいのに、この男の考えていることが分からない。
人の気持ちを弄んで楽しいのだろうか。だとしたら承太郎には更に、サドで変態の称号を付けてやろうと思 った。しかし自分は、そんな承太郎のことが気になるどころか、自分の中の揺らいではいけない部分が危うくなるほどに 惚れてしまっている。

「性格悪いですね……信じられない」
「あんたには敵わねえよ」
「これ以上、僕を振り回すのはやめてください」
「勝手に振り回されているのは、あんただろう。俺は知らねえ」

何て無責任なのだろうと思った。この男のせいで原稿は手に付かなくなっているし、こうして酷い目に遭っ ているし、もう散々だ。ここまで罵られて、このまま逃げるようにして立ち去るわけにはいかない。自分の中の本能が、 そう囁いてくる。
無意識に唇を噛みながら顔を上げると、承太郎がこちらをじっと見つめていた。しかし直後に、その視線は そんな生優しいものではなく、はっきりと露伴を射抜いていることに気付いた。皮膚を突き破って、まるで心臓にまで届いて貫くほど の強さで。
これほどの凄みを持つ人間を、露伴は他に知らない。

「あんたはどう思っているか知らないが、俺はあんたに会うのをやめる気はない」
「まさか……本気で、僕を」
「言葉だけじゃ足りねえか」

ようやく腕が解放され、その代わり承太郎は露伴に一歩近づいて壁に追い詰めていく。
露伴が下がると、背中が壁について完全に退路を断たれてしまった。こちらに向けられる視線は未だに力を 失わず、露伴は動けなくなる。
吐き出した息が、かすかに震えた。このまま身を任せてしまったらどうなるか、露伴はぼんやりと考えるだ けでぞくぞくした。決して穏やかな展開にはならないと分かっていながらも、逃げる気にもスタンドを使う気にもなれな かった。
自分の漫画を読んでもらえなくなるほど恐ろしいことはないと、今まではそう思っていた。しかし今は本当 に、初めて人が怖いと思った。
頬に承太郎の手が触れると、大きく厚い手のひらから温度を感じる。びくっと肩がはねるのを隠しきれず にいると承太郎の顔が近付いて、次の呼吸をする前に唇を奪われた。
何が起きたのか分からなかった。自分以外の温もりを唇に感じながら、目を閉じることもできずに呆然とし てしまう。すでに嗅ぎ慣れつつある煙草の匂いを、手を伸ばさなくても届くところまで近くで感じる。
やがて承太郎の唇が離れても、露伴は呆然と立ちつくしていた。柔らかく重なっただけのくちづ けの瞬間は、この場で鮮やかに、そして深く露伴の胸に刻み込まれてしまった。

「今、の……何で」

上手く言葉が繋がらない。頭の中は未だに混乱しているのに、口からまともな言葉が出てくるわけがなかっ た。一体承太郎は、どんな気持ちで露伴の唇を奪ったのだろうか。先ほど、露伴に会うのをやめる気はないという言葉を 信じるのならば、少なくとも好意は持っているということか。自分では認めたくないが、心臓の音がやけ にうるさく感じる。
ようやく現実に引き戻されて分かったことは、承太郎のくちづけは嫌じゃなかった。むしろ自分は、 心のどこかでこれを望んでいたのかもしれない。
ふ、と息をついて承太郎に視線を合わせる。そして少し緊張しながら次の言葉を待った。
承太郎は露伴から視線を逸らさないまま唇を開く。

「……ああ、悪いな。もしかして初めてだったか」

申し訳なさなど少しも感じさせない口調と表情に、露伴は絶句した。やっぱりこの男は無神経だと、苛立ちを覚えてしまう。
しかしこの男はただ者ではないと感じたのは、露伴が誰かと唇を重ねたのが、今日が初めてだったと見抜いたことだ。


自分にとって誰よりも何よりも大事なものは、昔からたったひとつだけだ。それは永遠に揺るがないはずだった。今日までは。




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2010/3/1