夜の底 あの人と過ごした日々の記憶を全て消せれば、僕は楽になれるだろうか。このスタンドの力なら、いつでもそれができる。 海の向こうに帰ってしまったあの人を思い出すたびに生々しいほどよみがえる、身体の奥が燃えるような感覚。 最初から割りきっていた関係のはずだったのに、僕は別れ際にさよならが言えなかった。 それを口に出して、当たり前のように受け入れられてしまうのを、想像するだけで怖かった。未練がましい自分が嫌だ、何も考えたくない。 離れてから1週間経っても、向こうからの連絡は全く無かった。僕が勝手に期待しすぎていたのだろうか。ほんの少しだけでも、僕を気にかけていてくれるかもしれないと。 「……ヘブンズドアー」 自分のスタンドの名を呼ぶと、そばにそれが現れた。いつも通り、忠実に。 一緒に撮った写真など、思い出の品物は無い。残っているのは僕の中の記憶だけだ。僕は最後に、今まで重ねてきた中で1番甘いあの人との日々をたどった。 そして目を閉じる。ここで全て断ち切る。 あなたに会えて良かった。さよなら、承太郎さん。 その瞬間、突然電話が鳴って僕は目を開けた。胸騒ぎがする。ベッドから立ち上がって電話機のディスプレイを確認すると、そこには知らない番号が表示されていた。 しばらく経ってもまだ鳴り続けているので、僕は観念して受話器を取った。 「岸辺です」 『久し振りだな、先生』 番号は知らなかったが、この声はよく知っている。 「どうしたんですか、こんな時間に……」 そう言ってから僕は、こちらと向こうの時差を考えた。今ならアメリカは朝ぐらいか。 『この時間にしか、かけられなかったんだ。すまない』 「僕のこと、覚えていたんですね」 『忘れていると思ったのか』 「忘れたいのかと、思っていました」 電話の向こうが少しだけ沈黙した。これはどういう意味なんだ。 『……あんたに、キスがしたい』 「えっ?」 『深いやつじゃなくていい、重ねるだけでも』 「今は無理ですよ、そんなこと」 『ああ、分かっている。先生の言うとおりだ。あんたを……忘れたくねえ』 届いているのは声だけなのに、僕は何故かあの腕で力強く抱き締められている気がした。 また電話する、という言葉を残して通話が切れた後、僕はまたひとりになった。 果ての見えない暗い夜の底で僕は、全て断ち切る決意があっけなく崩れていくのをはっきりと感じた。 |