Survivor/4 部屋に足を踏み入れた直後、携帯にかかってきた電話は多分、仕事の関係者からなのだろう。 承太郎さんは通話を終えると、僕の方に視線を動かす。 「急にやらなきゃいけねえ仕事が入った」 「そうですか、それじゃあ僕は帰りますね」 「いや、すぐに終わらせる。座って待っていてくれ」 本当に居てもいいのかと思いながらも、僕は彼の言うとおり大きなソファに腰掛けた。パソコンが置いてある机に向かうのかと思っていた承太郎さんは、小さな冷蔵庫から 何かを取り出し、僕に手渡してきた。よく冷えた缶コーヒーだった。 「15分もあれば終わる」 「……わかりました」 ありがとうございます、と僕が缶コーヒーのお礼を言う前に、承太郎さんは何も言わずに机に向かって行った。その広い背中に見惚れている自分に気付いて、僕は動揺した。 気にしないようにしているはずが、どうしても目で追ってしまう。 あれから承太郎さんは毎週僕の漫画の感想をくれるようになり、お互いの仕事のことなども話したりと、少しずつ距離は縮まっていった。 学者である彼の話は、とても興味深い。どうやら気が合うようなので、これから良い友人になれそうだ。たった1度見た夢に振り回されて、ひとりで空回りしているのは格好悪い。 どうせ向こうも何とも思っていないだろう、こちらばかり意識しても仕方がない。 僕が缶コーヒーを飲み終える頃、承太郎さんがこちらへ歩いてきて、僕の隣に腰掛ける。彼の重みでソファが軋んだ。 「待たせてすまなかったな」 「思っていたより、早かったですよ」 僕がそう答えると、承太郎さんはじっとこちらを見つめてきた。正確に言うと僕の顔ではなく、頭の方だが。 「前から思っていたんだが、あんたのその髪型は一体どうなっているんだ」 「何ですか、いきなり」 「それ、外してみてくれねえか」 そう言って承太郎さんは、僕のヘアバンドを指差した。何を言い出すのかと思えば、これは予想外の展開だ。こんなことは今まで、誰にも言われたことがない。別に服を脱げと 言われているわけでもないので、僕は深く考えずにヘアバンドを外した。 いつもは上げているためか、伸びている実感のなかった前髪が額に下りてきた。こんなものを見て何が面白いのかは知らないが、髪がひたすら鬱陶しいだけだ。なので風呂と寝る時以外は 外さないようにしている。 「こっちもいいな、新鮮だ」 承太郎さんの大きな手が、僕の前髪に触れてくる。 「……どういう、つもりですか」 「俺にも分からん」 彼自身にも分からないというこの行為を、何故か僕は大人しく受け入れている。もっと触ってほしいから拒まないのか、緊張で動けないだけなのか、 答えが出てこないまま僕はされるがままになっていた。 やがて承太郎さんの手が頬に伸び、手のひらで包むように触れてきた。さっきから視線は重なり続けていて、胸騒ぎがする。 「多分あんたは信じねえだろうが、聞いてくれるか」 「……えっ?」 「俺は、あんたに惚れているかもしれねえ」 真顔で告げてきたその言葉に、僕は絶句した。この人は何を言っているのだろう。どう考えても、すでに結婚して子供も居る立場で口に出せる台詞ではない。単なる気の迷い だとしても、たちが悪すぎる。 「ちょっと待ってください、本気で言ってるんですか」 「ウソをついてどうする」 冗談ではないことは、本人の顔を見れば分かる。しかし意識しないように努力していたのに、こんなふうに追い詰められてしまっては、何もかもが台無しだ。もしこの告白を 受け入れたら、あの夢はきっと現実になる。僕も承太郎さんも子供ではないのだから、そうなってもおかしくはない。 「俺じゃ不満か」 「それ以前の問題でしょう、あなたには家族が……」 承太郎さんの唇が耳に触れた途端、僕の頭の中から次の言葉が消え去った。こんなふうに迫ってくるのは反則だ。そう思うほど僕は愚かにも心が揺れている。堪えていたものが、 崩れてしまいそうだった。ふたりきりの部屋で生まれて、僕の胸に広がった甘さと心地良さのせいで。 「さっき、何か言いかけていたな」 「……あれ、は」 首筋に唇が押し当てられ、僕は息を震わせた。何かどころか大体想像は付くだろうに、わざわざ言わせるのか。この時僕は、彼のことを初めて酷い男だと思った。自分の立場を 自覚していない上に、僕を動揺させて楽しんでいる。それでも承太郎さんが、今まで僕に見せなかった部分をここで晒してきて感じたのは、嫌悪ではなく歪んだ悦びだった。 時間が経つにつれて僕の心は間違った方向に傾き、取り返しがつかなくなっていた。ひとりで苦しむよりも、いっそこのまま流されてしまおうか。 僕は一呼吸置いた後、承太郎さんの肩に額を埋めた。 「あなたと居ると、とても心地良いんです」 目を閉じて、ずっと胸に秘めていたことを口に出した。 「今までずっと、あなたにとっての僕はただの知り合いだと思っていたので、僕もそのつもりで接してきました」 僕は承太郎さんの肩に触れ、そっとしがみついて距離を縮める。こんな気持ちでここまで接近するのは初めてだった。 「承太郎さんが、ただの勢いや気まぐれであんなことを言うとは思えませんが、改めてはっきりさせたい。本当に、僕のことが好きなんですか?」 そう問いかけると、承太郎さんは僕を自分の身体から離して、再び視線を重ねる。正面から見つめられて、どきっとした。 「前に、ふたりで居酒屋に行ったのを覚えているか」 「僕が酔った挙句に倒れて、お世話になりましたね」 「あの時、あんたが漫画の仕事についてこだわりや不満を俺にぶつけてくる姿を見ていたら、こいつのことをもっとよく知りたいと思った。気になり始めたのはあの日からだな、 あんたは気付いていなかっただろうが」 「全く気付きませんでした」 そうえいえばあの夢を見たのは、居酒屋の件のすぐ後だった。僕のほうは見た夢がきっかけで承太郎さんを意識するようになったのだが、当然そんなことを本人に言えるはずが ないので、黙っておく。 「あんたも知っているだろうが、俺は結婚していて子供も居る身だ。こんな立場で好きと言っても、あんたは信用しねえだろう。分かってはいるが、俺は気持ちを抑えられそうにねえんだ。 きっと俺はまだ、自分の立場もわきまえずに欲しいものを手に入れようとする、ガキのままだ。この歳になってもな」 落ち着いた口調で語られたそんな告白を聞いて、少しも心が動かない奴が居たら、そいつは異常だと思う。 「あなたがガキだったら、僕はもっと」 もう、意識しないように自分を偽る必要はないのだろう。この人にもっと求められたい。奥深くまで、痛いほどに。 うるさくなってきた胸の鼓動を感じながら、僕は承太郎さんの頬に手を伸ばす。気持ちをうまく言葉にできないままで。 「引き返すなら今のうちだ、いいのか先生」 「……今さら引き返すくらいなら、あなたにここまで執着しません。そう思いませんか、承太郎さん」 僕はそう言って身を乗り出し、承太郎さんにくちづけた。濡れた舌先が触れ合う感覚に溺れながら、彼の左手の薬指にはめられているものに手を重ねて、完全に覆い隠す。 まるで現実から目を逸らし、欲しいものだけを追うように。 これから向かう先がどのようなものでも、この人が一緒なら僕はそれだけで生きていける。 信じられる証が今、ここにあるから。 |