俺だけの、





シンと静まった雲のない夜空、闇色に染まった天井にぽっかりと白浮きする満月、風も冷たくなり透き通った空を見せる秋の夜。
風流を堪能するのに相応しい空模様、その空の下で一際月光を美しく浴びる庭があった。
杜王町内でも屈指の邸宅として名を連ねる露伴邸、その庭は家の主の趣向を凝らした事が強く窺える造りになっている。
均一に刈られた青青しい芝生、それらから緩やかなカーブを描きながら脚を生やすアンティークのガーデニングテーブルに植物との共存に対する違和感は浮かばない。
逆にそこにある事が昔から決まっていた様に。その他の調度品も周りに植えられた草木の美観を損なう事無く配置されている。
さながら写真や絵画といった風景が月明かりの中、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
そんな浮世離れした景色を肴に酒を嗜んでいる男がいた。
漫画界では天才として、そして杜王町では大変偏屈な人物として有名な人物である岸辺露伴が自宅リビングのフローリングへ行儀悪く座り、杯片手に景色を眺めている。
部屋の明かりを消したままベランダを解放し、杯とそして徳利では無く酒瓶その物を脇に抱えて、また一口。
グビリ、酒が注がれ、またグビリ。
男が速いピッチで酒を飲んでいると、暗い背後から声がした。

「あのよぉ、何やってんッスか?」

「酒を飲んでる。」

戸惑い…と言うよりも、やや諦めの色合いが強い口調が室内に響き、それに応える男の声も感動的とは言い難い。
杯に唇を添えたまま見向きもせずに空を見上げる家の主。
突然の声に驚く様子も無かった。声の人物も、そしてその人物が此処に来るのも分かっていたのだろう。
だからこそ取り乱す様子も無かったが、一方暗闇の声元は相手の様子に堪り兼ねたのか、その輪郭を解放されたベランダから零れる月明かりへと晒す。

「そりゃ見たら分かるっての、じゃなくて”俺を態々呼んでまで何してるんッスか”って聞いてるんだよ。」

仗助は露伴の端的な言葉に対し難しい顔をしている。
言葉から類推するに露伴が仗助を呼び付けた様だ。
その為か、こんな闇夜の中わざわざ訪問してきたにしては目的が無く、所在無い。片手で携帯電話をパカパカと弄る仕草は相手の反応を待っている様に見える。
案の定、仗助は突然露伴に電話で呼び出され今に至る。
普段鳴りもしない曲からの呼び出しに何事かと驚いて、そして仄かな期待を抱いて…急いで耳に当てた途端“早く来いっ!“ときたもんだ。仗助が理由の追求位しても何も罰は当たるまい。
しかしそんな理屈がこの偏屈な家の主に通じる筈もなかった。

「だから酒飲んでんだって言ってるだろうが!それ以上の説明が必要なのかお前はっ?」

人を小馬鹿にした様な口調で露伴はズイと新たな杯を緑翠色の瞳の前へ突き付けた。
呼び付けた方としては余りに勝手な言い草である。
勿論仗助とてその思いがあったろう、精悍な顔は月明かり下でも分かるほどに憮然とした。
まともな神経をしてればこの身勝手な男の言い方に眉を顰めるのは間々ある事だ。
それだけで抑えられる時は良いものの、今の様に深夜突然特に理由も無しに呼び付けられるなんて事態になれば当然文句の一つも付いてやりたくなる。
…しかし、そう思っている筈の仗助の口は意外な事に行儀良かった。

ベランダを開けて月見酒とはイイ御身分だと呆れ返ったものだが、今まで露伴から酒の席に誘われる事の無かった為、その驚きと、そして嬉しさに素直に手渡された杯を取る。
紅く熟れた目元で此方をチラリと確認するが口を開く事はなく、無言で酌をされた。
トクトクトク…
擦り切れ一杯に入れられる。居酒屋の飲んだくれだったら喜んだかも知れねぇが…生憎俺は酒は飲めてもそんなに好きじゃない。
何時零れて手に、つーか学ランに付くかと考えると眉を顰めざるを得ない。
臭い付くのはイヤなんだよな…、クリーニングに出すの金掛かるし。
しかしこんだけ内心悪態を付きながらも杯を断らなかったのはやっぱり、惚れた弱みって奴なんだろうな…。
黒紫色の瞳は俺の様子をジッと見詰めてくる。
ズルいだろ、その顔…
仗助は零れるのも構わず、グビリと注がれた一献を飲み干した。

含んだ瞬間に広がる香りはフルーティーだ。甘めだがクドくない。 切れが良く、舌にジンと余韻が残った。
かと言って酒独特の鈍い痺れといった刺激では無く、非常に心地良い甘味とその甘味を主体とした旨みが鼻を突き抜けて押し寄せてくる。
唯甘い酒を呑んだ事はあるがこんなに上品な甘さは初めてだった。
余韻は直ぐ消えて、全然くどくない。華やかな口当たりから一転、寧ろ余りに素っ気無い引き際。
一口でも分かる、コレが高い酒だと。
手を伸ばす距離に酒瓶があればついついもう一杯と次の杯へ進む様な、一歩間違えば泥酔必至な危ない旨さがある。
その比喩表現を証明する様に、一歩間違えた例が仗助の目の前でだらしなく座っていた。

彼の横で転がる一升瓶は既に殻だ。
一つ断って置くが露伴は酒に弱い訳じゃない、いや、強い方なのだと思う。
強い酒を1・2杯煽っても平気そうだったし、大概は酔っている所を見ない。
酔う前にセーブしている節がある事も否めないし、元々露伴は頬が紅潮したりと身体的な変化が出難いという面もあるが、それでも体をくったりとさせるほど酔う事は無い、…つーか、無かった。
周りには酒瓶以外何も無い。
詰まり露伴はツマミも無しに一升瓶1.8Lを飲み干して、尚且つ未だ二本目を嗜んでいる、って事になる。
酔って当たり前って所だろうか。
酒瓶を持ってウットリしてる露伴はまるで股旅に縋りつく猫そのものだ。
ぽってりした紅い唇で杯から酒を吸う様のエロさを全く顧みる事もない。
何時もは鋭利な黒紫色の瞳もとろんと蕩けている、砕けた様子だ。
ダメだ、コイツ…完全に酔ってやがる。
仗助は自分の前でこんな表情をする筈の無い露伴に彼の酩酊ぶりを確信した。

「オイッ!仗助、早く杯出せよ!僕が注いでやるって言ってるんだ!」

露伴は内心で大嫌いな猫に例えられている事など知る由も無く、酒瓶を相手へ突き出した。
高圧的な口調は変わらないが、その表情は何処か熱っぽく、体もふら付いている。

「うわっ!ったくもう、……あ〜、ハイハイ!ありがたく頂きますよ!」

仗助は慌てて、身を乗り出す露伴の体を支えながら、何とか杯を酒瓶の口へ持っていった。
相手の支えで何とか体勢を崩さずにいる癖、張本人である露伴は悪びれる様子もなく仗助の杯にたっぷり酒を注ぎ込む。
動く度に酒が仗助の手や、制服の袖口に付くなど考えもせず。
なんとまあコレで良いことをしてると本気で思っているのだ、悪気なんて皆無だから余計に性質が悪い。
これがもし他の誰かだったら少なくとも酒瓶位は取り上げてる。
…しかしその相手が露伴なのだから、仗助は頭を抱えた。
甘え…られてん、だよな…多分、
何時もより砕けた雰囲気で、プライドの高いコイツが体を支える手に文句も言いやしねぇ。
そう思うと、一恋人としてはなかなか文句など言えようもなかった。
仗助は注がれた杯でグビリと喉を潤した。
“飲まないのか?“と無言で訴えかけてくるとろんとした黒紫色の瞳に急かされて。
こうして時々甘えてくるから堪らないんだ。
普段からコレ位可愛く出来ないもんッスかね?
何時もは甘えなんて一片も見せない恋人相手には心の中で悔し紛れの悪態を付く事しかできなかった。


酒瓶が半分になる程注がれ、もう手や袖口はビショビショ。
絞ったら随分酒が出てきそうだ。
コレでいっそ酔えれば気にもならないんだろうが、幸か不幸か仗助は酒に強かった。
だから酒を飲まされてもなかなか酔えないし、第一酒を旨いと好んで飲むタイプでもない。
隣で体をふにゃりとしながら旨そうに酔いに飲まれる人物とは違って。
露伴の表情は仗助が開いたままのベランダを意識して仕舞うに十分だった。
何と無く淫靡な印象を与える目元や唇は性的な心地良さに解けている様な…端的に言うと気持ちイイ事をしている時のソレに似ていたのだ。
全く、スケベな顔しやがって…っ、
明らかに通りすがりへ晒す表情でない、仗助は益々眉を顰めて露伴の体を支えていた腕を離した。
表情の割りに随分優しいその仕草は見目程に怒りを感じていない証拠だろう。
仗助は小さく溜め息を付いて、ベランダに手を伸ばした。
そんな時だ、彼に名を呼ばれたのは。

「オイ、じょーすけ…」

「……何ッスか?」

そろそろ呂律も危うい相手に対して仗助の言葉は少々冷ややかだ。
かと言って、酔っ払いの醜態に付き合わされるのは御免だとかそう言った類の侮蔑的な冷ややかさではなく、寧ろ逆で熱を帯びた感情を隠す故の膜だったのだが。
緑翠色の瞳はその虹彩をキュッと縮めた。
“月見てんだからそのままにしとけよなっ“とか言うんじゃねぇだろうな?
想像が容易過ぎると言うことにさえ癪に障る。
こっちの気持ちも考えてもの言えよなっ、このイカレ漫画家…!
”誰が言う事なんて聞いてやるかよ。”と仗助がベランダのガラス戸を掴む手に幾ばくか力を篭める。
すると、フッと甘い香りが鼻梁を通った。

「…んっ、」

ぽてり、
肩に温かい重みを感じた瞬間、フワリと鼻を擽るのは露伴の匂い。
露伴は突っ掛かるどころか、自身の頭を仗助の肩へと乗せてその重みを男へ預ける様な行動を取る。

「ヘッ!?エッ、ァ、」

「露、露伴…っ!?」

俺は上擦った声を隠しもせず体を固縮させた。
こんな風に触れてくる白い体も、何も文句を言わない唇も俺には予想外過ぎた。
信じられない。…どうなってんだ?
分かるのは自分の心臓がバクバク鳴ってる事と、そして肩の重みは…確かに露伴であると言うこと。
肩に乗せられたのは多分頭、少しでも動くとその振動が皮膚越しに伝わった、硬さからいっておでこを当てられてんだろうか…?
ふとした疑問が浮かび何気なく肩に振り向こうとする。
しかし仗助の首は半端な形で止まり、頬を鮮やかに紅潮させた。
…今更、相手の行動の親密さに気が付いたからだ。
あの露伴が、あの嫌味ばかりで甘い雰囲気なんてこれっぽっちも関心を示さないコイツが、…まるで映画なんかで見る恋人みたいに。
恋人…、自分の言葉に仗助は一層瑞々しい肌を紅潮させた。
改めて相手のやっている事を認識した途端、気恥ずかしくなってしまった仗助は肩に乗せられた露伴の顔を見る事もなく首を正位置に戻して仕舞う。
まるで自分の首が自分のじゃないみてぇに感じる、露伴の頭が離れて行ってしまうかもしれない危惧で。
露伴はどうしてこんな事をしているんだろうか?
今何を思っているのだろうか?
確かに酒が入ると何時もより砕けた様子になるし、スキンシップに怒りもしない。
けど自分からこんな事するのは初めてだ…よっぽど酔ってんだろうか?

…暖けぇ、何時もより……
肩に掛かる重み。露伴の重み。
伝わる体温はいつも感じるものより1・2℃高い様感じられる、何だか何時も以上に甘えられてるみたいだ。
少し逡巡しながらも露伴の頭を撫でた。
艶やかな黒髪は指通りが良く、手触りも良い。
サラサラ…しかも凄ぇ良い匂いすんだよな…。
少々不埒な思いに駆られながらも軽いタッチで髪を梳いていると、”…ん”気持ちよさそうに吐息を漏らされた。
それは普段の彼からは想像も付かない程、しかし親密に付き合った人間には分かって仕舞う程の濡れた息。
心臓が血管壁を拡張させて脈打っているのを感じる…ドクドクと五月蝿い程に。
露、伴…っ?
仗助は遂に露伴へ振り返った。

感じた通り露伴は此方の肩に頭を乗せていた。
俯き加減で丁度表情が見辛い…ポッと紅らんだ白い肌に長い睫毛の陰りがゆらゆらと揺れている。
表情を隠された分、その小さな動きは余計に扇情的な印象を与えた。
どんな顔してんだよ、アンタ…?
そ…っと、腫れ物を扱う様な手付きで白く滑らかな輪郭を触る。
頬骨をなぞり、顎まで滑り落ちるというところで扇状の睫毛が扇がれた。
開かれた黒紫色の瞳は仗助を茫洋と溶けた色合いで見詰める、寝起きみたいに無防備な表情で。
ドキリと心臓が跳ね、連動して手が露伴の顔から離れる。
“ァ…ッ“
その拍子、今まで緩く結ばれていた紅い唇が艶めかしい光沢で小さく、割れた。
白い前歯と潤った舌が微かに見え、滑らかな肉は何かを探すみたいに歯と唇の間を緩慢に動く。
同時に揺れる睫毛に縁取られた瞳は蕩けた光彩で此方を茫洋と見続けた。
まるで離れられた事を惜しむ様に、…離れないでくれと訴える、様に……
静かにそよぐ風とそれに乗せられる虫の鳴き声が自棄に耳を反芻する。
酷くじれったい…でも止めたいとは思えない。
仗助は求めに応える為、離した手を彼の頬へと添え直した。

さわ…滑らかな輪郭に掛かる長い前髪を梳くと、焦点の合わない潤んだ瞳がゆるゆると指を追って上下に動く。
此方の一挙一動に反応しているかの様に…。
仗助は何かを思案しているのかトロンした目の露伴を暫く見詰め、徐に頬を触っていた指を滑らせ、口元へ寄せる。
チョン、
紅い唇を指で触れ、唇の間を爪で割ると露伴の舌先が触れる。
初めは確かめるみたく慎重に、子猫がミルクを舐める様な舌遣いで。
そして徐々にその滑りには性的な熱を帯びた。
ピチャ、卑猥な水音が仗助の鼓膜を柔らかく犯しだす…。

ふ…っと形良い唇は紅い唇と石榴色の肉の媚態に熱い吐息を洩らした。
こんな風に応えられるのは久しい。
何時もならもっと初期段階のスキンシップで睨まれている。
康一にはいっつもスキンシップ過剰の癖に…と不満は抱いても文句まで昇華させる事はない、それは偏に露伴の康一に対するものが性的な雰囲気を帯びてはいなかったからだ。
悔しいけれど、性的で無いから出来るのだと示されれば、性的なスキンシップもしたい此方側としては何も言えない。
それにセックス時以外の性的なスキンシップを嫌うなんて、所々潔癖な気を出すコイツらしいと半ば諦めていたりもした。
そんな露伴が今、此方が唇に指を添えたとは言え自分からその指を愛撫…と言っても差し支えない程執拗に舐めている。
ピチャ…ピチャッ
酒に酔っている為か緩慢な舌の動きだが、それが指の肉をじっくり味蕾で味わっている様で、背筋がゾクゾクした。
チュル…ッ
紅い唇に咥えられた指を引き抜いた。

「ン"ッ、ァ、」

その緩やかな衝撃に白い喉が上下する。
ねっとりとした唾液が鈍く光り、暫く指と唇は銀糸で繋がったまま、名残惜しそうなソレは男の胸を高進させるに十分だった。
コイツはこんな簡単に俺の事を誘惑するんだ。
無防備な表情で、そんな風に求めてくるなんてズリぃ…じゃんか、何時もは全然求めてくんねぇ癖にっ、仕事とか康一ばっか優先させる、癖に。
なのにそんな顔して俺の心を掴んで離さないんだ。
こんな何処の誰かが見てるかも知れねぇ場所で。

ガラガラ…
仗助は手を掛けていたガラス戸を静かに閉じた。
こんな表情する露伴を他の誰にも見せたくなかったから。
卑猥だからとか、恥ずかしいとかそういう訳じゃなくて、”こんな時だけ…ズリぃ奴だな、アンタ!”て思う悔しい気持ちはあるけれど…、兎にも角にもこんな蕩けた表情で俺に甘えてくる露伴を俺以外の誰かに見せたく無かったんだ。
だってそうだろ?コイツは俺に甘えてこんな顔してんだから。
こんな表情だけは、きっと康一の前でだってしやしない。
…俺の前でだけだから、恋人の前でだけだから。
俺が露伴を甘えさせてる。
その実感は体の内側から鈍くて痺れる様な快楽と、その先に繋がる、表情とかその瞳までも全部自分の為だけに蕩けたら良いのにと言う傲慢で激しい独占欲をもたらした。
俺だけの為にするコイツ、俺だけの…
恋人で、気紛れに誘惑してきたり突き放してきたり憎ったらしくて、でも偶に甘えてきたり居なくなると寂しそうな表情をしちまう…愛しいアンタ。

俺だけが知ってる露伴の甘えた表情、仕草、雰囲気。
どれも劣る事無く好きだと思う、本当にその片鱗だけで胸が亢進して不幸にも幸せにもなれる。俺以外の誰にも一片だって垣間見せたくないし、渡したくない。
微かな仕種から表情から心を読み解こうと必死になったり、触れるだけで心臓の血が逆流しそうになったり。
こんな甘くて苦い経験は俺だけの特権なんだ。
コイツの、恋人に甘える顔ってのは。
今は、少なくとも今だけは俺だけのものだ。
俺だけのアンタ。
俺、だけの……

「俺だけの、露伴…」



想いの熱さに比べれば静かな旋律だった。
口を閉じるのと同時に腕を伸ばして、俺は露伴の体を包み込んだ。
凄ぇ事言っちまった自覚はある。
でもそれは露伴が酔ってると思うからこそ言えた言葉であって、出来る行動であって、普段なら絶対出来ない事だ。
普段の露伴ならきっと深く眉を顰めて”男同士で何言ってやがる”とでも言うだろう。
コッチが真剣なら真剣なほど、眉間の皺が深くなって強く反発してくるから。
だから露伴が眠った時や、こんな珍しく酔った時でもないと出来ない。
精一杯の想いを否定されるのには何時まで経っても慣れないものだから…。
白い体は瞬間ピクリと跳ねたが、それ以上の抵抗は示さなかった。
同じ事なのかもしれないが反応も無い、彼の体は如何してか動こうとはしない。
後に残るのは心音と吐息ばかり。
何でだろう、やっぱりドキドキしてる俺の心臓…
酔っているのだと承知の上で、寧ろ好都合だと思っている傍ら、それでも気になって何処か返事を求めてる自分がいる。
俺の言葉を聞いていたんだろうか。
もし聞いていたなら露伴の心は如何思ったんだろうか。
”露伴…”
俺が耳元でそっと名を呼ぶと、白い肩がもっと小さくぴくりと揺れた。
その瞬間、首筋から匂う露伴の香り…
露伴の体は何時もより何処となく甘い。
俺はその甘やかな匂いを体のありとあらゆるとこに浸潤させてやりたくて肺胞一杯に吸い込む。
肺が空気に満たされてく、やっぱり甘い。
どうしてだろう、別にこの白い体はケーキやチョコレートでも無いのに…でも、何より好きな匂いだ。
こちらを堪らない気分にさせる。
首筋の匂いに誘われて白い肌に唇を落とした。
”ぁ、”柔らかい感触に小さく声を洩らす紅い唇。
その妖艶な色に釣られてもう一度首筋に唇を這わせようとすると、掠れた声帯が甘く、男の耳を震わせた。

「……じゃあ、…おまえは、」

縺れた舌で奏でる掠れた声、露伴の。
突然降って来た旋律に仗助はビクリと身を固くした。
まさか応答が返ってくるとは思わなかったから。
いや、正直言っちまえばまともに聞いているとさえ…。
此方を見上げる黒紫色の瞳は蕩けて白目と黒目の境界線が酷く曖昧だ。
その濡れ具合に、ゴクリ…喉が鳴る。
露伴は蕩けた虹彩で茫洋と精悍な男の顔を映し込むが、しかしそれ以上何も言ってこないし、何もやってこない。
暫くその膠着状態が続き、若い体は徐々に力を抜いていった。
それはこの状態に慣れたと言うよりも、相手の反応に安堵したといった方が正しい。
もし露伴の神経がまだ正常だったらこんな反応にならない筈だ、俺のあんな言葉を聞いて黙ってる筈が無い。
酩酊してるのだと。
先程の言葉は酩酊している故の、戯れだったに違いないと。
まるで寝耳に水をぶっかけられたみたいだ、蜜みたいな水を注がれてその粘度と糖度に思わず耳を押さえそうになる此方の気持ちなんて…コイツは考えもしてない。
酔ってるからってここまで俺を振り回す権利はない筈だ。
いっそ今の内に、こっちも普段言えない事でも沢山言って仕舞おうか。
しかし結局何も言えずにいた俺と、それっきり黙りこくる露伴。
奇妙に濃密な沈黙があった。
その間露伴は酔ってとろりとした瞳で上目遣いにこっちを見詰めてくる。
目も縁も紅い、もう既に熟れ切ってる唇は何か言いたげに微かに動き、その動きに釣られて俺はまた唾を呑みこんだ。
……なん、だよっ、そんな顔、すんなよな…っ。
じれったくてどうしようもないのに目を逸らせない。

「…ぼくの、……、」

零れ出た紅い唇の震えた声に俺まで震えそうになる。
でも肝心なところは未だ伏せられたまま。
ジク…胸が疼く、何が言いてぇんだよ、アンタ…
どれ位待っただろう。時間にすれば短い時間だったのかもしれないが、胸から込み上げる焦燥感に狂いそうになった。
やっと、豊潤な色の唇が言葉を紡ぎ出す…。

「おまえ、は…ぼく…だけの、じょうすけ…なんだな?」


消え入りそうな声、何時ものコイツからは想像も付かない程、か細く、弱々しい。
未だ瞳は蕩け切っていて何処を見てるか分かず、ちゃんと此方を見てるかさえ怪しい癖に…コイツは冗談では済まない様な事を言う。
酔っ払いの戯言だと笑って済ませられればどれ程良いか。
でも、俺には出来なかった。
瑞々しい肌は体中の血液を競り上げ真っ赤に燃え上がった。
耳の裏で心臓がバクバクと跳ね上がる音が喧しい。
その言葉の中には何かとても熱くて、血の通った生々しさと切実さがあったから。
ソレは掠れ漏れる程度なのに、確かに俺の皮膚へ浸潤して俺の中に沁み込んで来て、…俺の心を酷く揺さぶる。
……息が止まりそうになった。
足元が覚束無いと感じる位揺さ振られて、俺は今にも崩れそうだ。
アンタ、一体俺を如何しちゃう積もりなん、だよ…っ?
俺が低く唸りながら彼の顔を窺い込もうとしたら、露伴の方から俺の体を求めて来た。両腕で包み込まれている状態なので抱き返す事は出来なかったが、代わりにギュッと、俺の脇腹辺りを鷲掴みする。
酔っている為に力は無い。
でも、遮二無二掴まれている事は明らかだ。
跳ねる心臓を掴まれるみたいな錯覚に陥る…大切なモノを逃がすまいとする様に。
露伴がこんな風に俺を求めてくるなんて…。
あ…っ、
俺は文字通り指一本動かす事が出来ないでいた。
動かせば直ぐにだってこの白い体をもっと深く掻き抱けるってのに…
露伴の、俺を求める力を掻き消してしまう事なんて、少なくとも俺には出来っこない。

ドク、ドクッ
心臓近くに当てられた露伴の胸は俺の五月蝿い鼓動を感じてるに違いない。
そう思うと格好悪くて恥ずかしかったが、同じ位の気持ちでこの胸の内を感じて欲しかった。そして俺も感じたかった露伴の心音を。
ドク、ドク、ドク…
“…っ、“
忍ぶような露伴の小さな吐息は心臓の鼓動の大きさをより生々しく感じさせる。
心音にさえ欲情しちまう自分はきっと可笑しいんだろう…
でもそうまでさせるのは、アンタなんだよ。
掴まれた脇腹に痛みはないがそれなりの圧迫感は感じ、その体温が腹から内蔵へじわじわ浸食する感覚に胸が熱くなった。
また、胸が亢進した、どうしようもない。
何処まで俺を侵食しちまう気だよ、アンタ…責任、取れよな。
俺は悪態をつきながらも露伴の求めに応じる様に今よりもっと、肉薄した。
”ン…ッ”微かに跳ねる白い体。
しかしそれも一瞬で露伴は俺の求めに更に応じる為に弛緩した体を密着させる。
ドクッドク…アンタの心音も俺を求めてる…熱でくっ付いちまいそうだよな。
俺達の心臓…。

ああ、そうだよ…アンタが俺だけの露伴なら、俺はアンタだけの仗助だ。
小さく唇が紡いだ男の言葉は淡い月明かりの中、彼の鼓膜へ溶けていく。



……俺だけの露伴。




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