smoking gun 受話器を置いた後、重々しい書斎の扉をノックする。不愛想で短い返事に、ああ苛ついてるな、そう考えながら扉を開けば、白く霞んだ空気が流れ出してきた。濃い煙草の香りに苦笑して、その中に足を踏み入れる。この人は大人のようでいて、それでもこんな時だけは正直だ。 「旦那様、煙草は少しお控えになった方がよろしいかと」 「…お前には関係ない」 「お嬢様に嫌われますよ?」 「構わん…どうせ、今日も帰っちゃ来ないんだろうが」 さっきの電話はそれだったんだろう、そう無言で促すような視線。ぼくからすれば、それが分かるってのはやっぱり夫婦の以心伝心ってやつなんじゃないかと思うのだけど。そう言ってあげる事は職務にはないので、ただ聞かれた事に答えるだけだ。 「ええ。奥様から先程ご連絡がありまして、今日もお帰りにならないとの事でした。お嬢様も一緒だそうです」 途端、彼がまだ長い煙草を灰皿でぐしゃりと潰す。 全く本当に正直なことだ。だけど、何しろ彼は不快感情しか表さないから。その正直さは理解されにくいし、多分その表出すらぼくしか知らないのだろう。言い換えれば普段の無表情は不快だからじゃあないってことで、それを理解しさえすれば案外分かりやすいのだけど。それを知らない奥様は可哀想だと思う。彼女の前ではこんな姿を見せたことはないから、無表情の意味さえ知らないのだ。 直ぐさま次の煙草を引き抜く彼の指先は、よく海水に触れるせいか少し荒れていて。 「いくら今日帰ってこないとは言っても、煙草の香りはなかなか消えませんよ」 それを見たら、奥様のもう一つの伝言をそのまま伝えなくて良かったなぁと思った。 「だが、おまえはこういうおれの方が良いんだろう」 職務違反かもしれないけど、でも彼はきっとその伝言には従わないし。 「…ふふ、よくご存知で」 ぼくにだけ不快な顔をして見せる彼に、何を言ったって、ねえ。ぼくは彼の一面を引きずり出すのが楽しいだけで、別にそんな顔が見たいって訳じゃない。特別煙草の香りが好きな訳でもない。ただ、ぼくの前でだけ荒む彼が好きなだけだ。奥様の代わりにぼくへ不快感情をぶつける彼が、可哀想で可愛くて仕方ないだけだ。 苦々しそうに煙を吐き捨てた彼が、荒れた指先をこちらに伸ばす。瞬間反転した視界に目を細めると、煙草の香りだけが脳を占めた。 (あまり煙草を吸い過ぎないようにって伝えて頂戴、だったっけ) ちゃんと想い合ってるのに上手くいかないっていうのは救いようのない不幸だ。奥様は旦那様の愛情を信じられなくて、旦那様は上手く伝わらない事に酷く焦れている。それなら、そんな物がなくとも彼を理解できるぼくの方がずっと幸せだろう。そこに、間違いなく少しの真実があったとしても。 「…ヘブンズ・ドアー」 絨毯に押し倒されたまま、彼を暴いて中を開く。奥様に関する記述の代わりにぼくのそれは少しずつ増えているけれど、その内容を確認しようとは思わなかった。何が書いてあろうがそんなのは無意味だし、必要なのはただ貪り合う事だけだ。いつも通りの言葉を書き込むと、力の抜けた彼が倒れ込むような勢いで圧し掛かってきて、ぼくはと言えば笑いを堪えるのに必死だった。彼だってこんなに単純だ、愛なんて放り出して、形だけのものに溺れればいい。 「あ、っあァ…ん」 本来のぼくよりは控え目な声で以て、彼を煽る。足を絡めて引き寄せれば、普段端正な顔が歪むのがひどく色っぽかった。きっと奥様だってこんな彼を何度も見たはずで、ぼくなら愛が感じられなくったってこれさえあれば満足できるのにな、と考える。多分それはぼく位のものなんだろう、現に奥様はそれが出来てないのだから。 「っ! あっ、あ、あァ!」 「気持ち良いか」 穿たれながら聞かれたって、答えられる筈もない。ただ首をがくがくと縦に振って答えの代わりにすると、思いきり抱き締められた。伝う涙を吸って濡れる髪の生え際に、柔らかくくちづけられる。まるで愛しい人にするみたいに。 ―――だから、ああ、可哀想になと。彼の行動の真意を推し量って、当たり前のようにそう思っただけで。何の他意もなかったんだ、奥様の代わりをする今だけの、ほんの気まぐれ。 「…っあ、いしてる、わ」 あなた。 彼の動きが、ぎくりと止まった。 ゆっくり体を離して両手をついた彼が、荒い息のまま苦しげに見下ろしてくる。今だけは奥様と同じに見えている筈の、ぼくの顔を真っ直ぐ見つめて。 「ああ、おれもだ」 ―――思わず笑ってしまったのが、彼の目には都合よく写っているといいのだけれど。直接的ではないにしろ確かな彼からの愛の言葉に、微笑んでいる奥様なんて実に理想的な図じゃないか。 丁寧にくちづけられて、先の台詞がそんなに良かったのかな、とぼんやり考える。今までに何回もこうやって体を重ねたけれども、キスだけはされた事がなかった。それは、例えぼくが奥様に見えるからと言ってぼくであることには変わりないからで。彼はそう云う意味で、いつでも理性的にぼくを抱いていた。 だけど、ぼくの台詞がその理性を崩したのだとして、どうしてそんなに苦しそうなままなんだろうか。 初めて味わった彼の口内は、煙草の名残でひどく苦くて。 奥様も味わったことのないだろうそれだけが、ぼくと彼を共犯にさせる、動かぬ証拠だ。 |