あれから数日が経ち、夫婦が一緒に食事をしたり普通に接している様子をよく見かけるようになった。 一時は離婚の危機に陥ったが、どうにか持ち直したようだ。徐倫にも笑顔が戻り、以前のように寂しがることもない。 逆に露伴は承太郎と、挨拶などの最低限の言葉以外は交わしていない。今思えば唇を重ねたり、触れ合うという行為自体が異常だった。主人と使用人の正しい関係に戻ったのだ。 仕事はやりやすくなったが、廊下ですれ違った承太郎の背中を見送っていると、胸が締め付けられたように苦しくなる。深く関わっていた時より辛い。露伴は感情を表に出さず、ひたすら使用人としての仕事を続けた。 眼鏡の奥から感じる視線を無視できない。露伴が淹れたコーヒーに口を付けながら、老人はこちらを見つめている。 「あの、どうかしましたか」 「久し振りに会ってみれば、元気がないのう。何かあったのかな、露伴くん」 カップを乗せていたトレイを持って客間を出ようとしていたが、そうはいかない状況だった。露伴は老人の向かい側のソファに腰掛け、無意識にため息をついた。 老人は承太郎の祖父で、ジョセフ・ジョースターという有名な不動産王だ。足腰が弱いため、常に杖を使って歩いている。温厚そうな見た目に反し、人の心を見透かすのが 得意だ。今までも何度か接してきたが、とにかく油断できない相手だった。 ジョセフがこの館を訪ねてきた時、承太郎は妻子を連れて出かけていた。とりあえず孫が帰ってくるまで、ここで待つつもりらしい。 「実は、君に会えるのも楽しみで来たんじゃよ」 「ご冗談を……からかってるんですか」 「いやいや、わしはいつでも露伴くんには本気じゃからな。信じておくれ」 調子の良いことばかり言うジョセフの話を聞いているうちに、重苦しかった心が軽くなっていく。自然に表情が緩み、気が付くと声を上げて笑っていた。ずっと忘れていた ものが戻ってきたような気分になる。いくら感謝しても足りない。 話が盛り上がっていたところで部屋のドアが開かれ、帰宅した承太郎が入ってきた。ソファから立ち上がると露伴は、お帰りなさいませ、と頭を下げる。まともに目を合わせられない。 「じじい、来てたのか」 「いきなり顔を出して、驚かせようと思ってな」 ふたりの会話を背にして、風呂を沸かすために露伴は客間を出た。和やかだった空気が、一瞬で張り詰めたものに感じた。何も知らないはずのジョセフはともかく、少なくとも今の 露伴にとっては気まずい。 玄関でジョセフを見送った後、食事の後片付けに向かおうとすると承太郎に呼び止められた。話がしたいと言われて、昼間にジョセフを通した客間を選んで入る。 ソファには座らず、閉めたドアの前で向かい合う。 「おれが帰ってくるまで、じじいの話し相手になってくれたんだろう。礼を言ってなかった」 「仕事ですし、気にしないでください」 「……あんたも、あんなに楽しそうに笑うんだな」 独り言のように呟くと、承太郎は目を伏せる。 この館に来てから、普段は黙々と仕事をしていたので笑う機会はなかった。たまにジョセフが訪れた時は例外だが。初対面で漫画について熱く語り合って以来、あの老人に気に入られているらしい。 急に承太郎が何も言わなくなったので、露伴は自分から別の話に切り替えた。 「最近、奥様と上手くいってるみたいですね」 「前よりはな。おれの知らない間に、色々誤解があったようだ」 本人に自覚はないかもしれないが、使用人の露伴からも承太郎は家族を大切にしていないように見えていた。仕事で何週間も妻子と離れて生活をして、館にいる間も自室にこもりきりで 論文を書いている。そんな生活をしていては、誤解を受けて当然だ。更に肝心なことを言わなかったり、人の気持ちに少々鈍感な面もある。 「おれはあんたの雇い主失格だと、じじいに言われた」 「ジョースターさんに?」 「これ以上辛い顔をさせるなら、あんたを引き取るつもりらしい」 まさかあれから、そんな話になっていたとは。やはりジョセフは気付いていたのだ。承太郎が部屋に入ってきた時の露伴の顔を見て、確信したようだった。 ジョセフの元でなら、悩む必要もなく毎日楽しく働けるだろう。一時は辞めて出て行ったほうが良いかもしれないと考えていたが、やはり自分の雇い主は、承太郎ひとりだけだ。 「許されるのなら、ぼくはここで働き続けたいです。この前は感情的になって、色々と無礼を」 露伴がそう言うと承太郎はドアに背を預け、天井のあたりを見上げた。 「あいつとの言い争いに疲れていた時、優しくされたのが嬉しくてな。それからいつの間にか、あんたのことばかり考えるようになっていたんだ」 「もしかして、本気だったんですか」 「奉仕だの忠誠心だの、そんなもんはいらねえ。露伴の全部が欲しかった」 突然の告白に、目頭が熱くなる。夢を見ているのか。まさか使用人の自分が、雇い主からそんな言葉を聞くとは思わなかった。過去形でも、受け入れることはできなくても、 嬉しくてどうにかなりそうだ。 「ぼくは……あなたに一度でも抱かれたら、冷静に仕事ができなくなりそうで恐ろしかった。でも違う場所で、対等な立場で出会えていたらきっと」 承太郎の指先が唇に触れて、話を遮られた。それ以上は言うなという意味だ。 これからはふたりでいる時も名前では呼ばず、唇を重ねることもない。しかし何があっても承太郎を置いていかないという約束だけは守り続けると、露伴は密かに誓った。 back 2011/10/10 |