原稿を引き裂いた後、泣きながら部屋を去っていた奈々瀬の遠ざかる背中を見送ってから数日が経った。
 もう少しで夏休みが終わる。祖母の経営するアパートにいられるのもあとわずかだ。それなのに原稿に集中できずにいた。繋ぎ合せたものを元に描き直そうとしても、ペンが進まない。
 まだ断ち切れていないのだろうか、おそらくもう戻らないであろう奈々瀬を。大切な原稿にハサミを突き立てられた時も、彼女の唐突すぎる言動や再び流し始めた涙に圧倒されて、何も言えずに呆然としていた。怒りに任せて責めることもせずに。そんな感情さえ何故か生まれてこなかったのだ。




 延々と続く波の音を聞きながら、スケッチブックに鉛筆を走らせる。狭い部屋の中で進まない原稿に向かい続けているよりも、外の空気を吸っていたほうが前向きになれる気がした。
 久し振りに足を運んだこの海で、新しい何かを掴んで帰れるだろうか。
 顔を上げると、波打ち際にひとりの男が立っていた。先ほどまでそこには誰もいなかったはずだが、いつの間に現れたのか。
 まだ夏は終わっていないというのに、白いコートに同じ色の帽子を被っている。日本人にしては珍しいほど背が高いが細いわけではなく、遠目から見ても分かる肩幅の広さ。
 スケッチブックに描いていた景色にその男を溶け込ませようとして、露伴は手を止めた。モデルに断りもなく描いていると、奈々瀬とのやり取りを思い出してしまう。
 忘れようとすればするほど、その存在は強烈によみがえり余計に忘れられなくなる。複雑な心境のまま、結局例の男を描いた。潮風に揺れるコートの裾、飛ばされかけた帽子 を押さえる手。波打ち際をゆっくりと歩き続けたその先にあるものは、あの男しか分からない。
 一段落ついて手を止めると、背後に人の気配がした。振り返ると波打ち際にいたはずの男がそこに立っていて、露伴は驚いて息を飲んだ。
「上手いな」
「……勝手に見るなよ」
「勝手におれを描いていたお前が言うことか」
 慌てて絵を隠そうとしたが、すでに見られている今では手遅れだ。すぐ隣に腰を下ろした男の瞳は、純粋な日本人ではない色をしていた。宝石のようだと、何となく思う。
「あんた、この辺りでは見ない顔だよな。旅行者か?」
「仕事の関係で、アメリカからこの町に来た」
 それからの会話で得た情報は、この男は海洋学者で、名前は空条承太郎。25歳。宿泊先のホテルで論文を書いていたが行き詰まり、気分転換にこの海を訪れたらしい。 今の自分の状況と重なるものを感じて、露伴はどきっとした。不思議な気分だった。
 今度はこちらが語り始めると、承太郎は時折頷きながら真面目に聞いてくれた。学校に通いながら漫画を描いていること、そして気の合う友達がいないということを。
「別に寂しくなんかない、ぼくは漫画があれば充分だ。学校でくだらない雑談をしているよりは、絵を描いていたい。そして近いうちに漫画家に なって、たくさんの人達にぼくの描いた漫画を読んでもらう。それだけでいい、友達も……恋人も、ぼくには」
 そこまで口にした露伴の胸に、奈々瀬の姿がよみがえる。
 人の涙を、初めて美しいと思った。あなたの力になりたい、守ってあげたいと告げた言葉の数々に偽りはなかった。自分でも認めている、あれはまさに初恋だったと。一生かかっても実らない、報われない想いでも。
 承太郎の大きな手が、露伴の頬に伸びて触れてきた。顔の距離が近くなり、突然の展開に動揺する。
「辛い話をさせちまったな」
「ぼくがひとりで喋っていただけだ、あんたのせいじゃない」
 沈黙の後、まだ離れない手に頬を擦り寄せた。まるで心ごと、全てを預けて縋るように。
 淡い思い出をこれからの糧にして歩いていくには、何かのきっかけが必要なのかもしれない。 初対面の男を相手に馬鹿げているとは自覚しているが、誰かに甘えるのがこれほど心地良いものだと初めて知った。
 腰を下ろした砂浜で、お互いに何も言わないまま唇を重ねた。そして薄く目を開け、承太郎の左手の薬指を見て苦しくなる。自分は一体、どれだけ同じ過ちを繰り返すのか。
 承太郎はコートの内側から取り出した手帳に何かを書き込み、そのページを破って露伴に握らせた。書いてある内容を見て戸惑う。
「……どうしてこれを、ぼくに」
「さあ、な」
 答えを濁したまま立ち上がり、承太郎は露伴に背を向けた。これから宿泊先に戻るのかもしれない。挨拶もせずに去って行く後ろ姿を、露伴は黙って眺めた。




 夏休みが終わり、自分の部屋に2ヶ月ぶりに帰ってきた。明日からはまた学校が始まる。
 持って帰ってきた荷物を片づけていると、スケッチブックの隙間から小さな紙が落ちてきた。裏に書かれているのは、ホテルの名前と住所。海で出会った男が手渡してきたものだ。
 結局露伴はそこを訪れず、海にも行かなかった。向こうもすでにアメリカに戻っているはずで、もう会うことはない。
 興味がなかったわけではない、むしろ逆だ。しかしあれ以上、身も心も任せてしまえばきっと恐ろしいことになる。簡単には抜け出せない道に迷いこんでしまう。
 丁寧に書かれた文字を指先で追いながら、これで良かったのだと自分に言い聞かせた。




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2011/9/24