開かれたドアの向こうに見える部屋の中は、想像よりも質素だった。
 何日か泊まるだけの部屋なら特にこだわりはないのだろう。狭い部屋にはベッドと机、そして無造作に椅子があるだけだ。 机の上には数冊の本やペン、紙の束のようなものが置かれている。大きな窓からは、あの海が見えた。
 無言で肩にまわしてきた承太郎の手を、露伴は反射的に振り払う。
「あんたに聞きたいことがある」
「聞きたいこと?」
「どうしてぼくに、キスなんかしたんだ」
「今更だな」
 承太郎は顔色ひとつ変えずに露伴から離れると、机の前に置かれた椅子に腰掛けた。
 確かに今更な話だ。海辺で出会って、大して時間も経たないうちに雰囲気に流されて唇を 重ねた。その後、このホテルの名前と住所が書かれた紙を手渡されてから丸1日が過ぎている。あのキスに対して疑問があるなら、された直後に口に出せば良かったのだ。
 よく知らない男が相手でも、嫌な気分にはならなかった。奈々瀬の件で落ち込んでいたせいか、全てを預けて誰かに甘えることが心地良かったのかもしれない。
 しかし祖母のアパートに戻ってから、承太郎の気持ちが分からずにもやもやしていた。既婚者の身でありながら、初対面の高校生にキスをしてしまう心境が。
 それをはっきりさせるために、この部屋を訪れた。浮ついた感情は一切ない、はずだ。
 ベッドに近づき、承太郎と向き合う状態でそこに腰を下ろした。
「友達も作らずにひとりで漫画ばかり描いているぼくに、同情したのか?」
「こう言えばお前は怒るだろうが、深くは考えていなかった」
「……あんたは軽い気持ちで、誰とでもあんなことをするんだな」
「さすがにそこまで無節操じゃねえな」
 そう言いながら立ち上がった承太郎は、どういうつもりなのか露伴のすぐ隣に座った。思わず腰を浮かせ、少しだけ距離を取る。
「逆に聞くがお前は、迫られたら誰にでも唇を許すのか」
「失礼な奴だな! ぼくはそんな安い人間なんかじゃない!」
 キスをされた時に抵抗すらしなかったせいで、誤解を受けているようだ。
 泣いている奈々瀬を抱き締めた瞬間、あんなに胸が締め付けられたのは初めてだった。他の人間では誰であろうと代わりにはなれない。奈々瀬の全てが、この心をいっぱいに 満たしていた。子供なりに、本気だった。
「あんたには分からない……大切な人に置いていかれたぼくの気持ちを。いくら願ったって、もう戻ってこないんだよ! 会ったばかりのあんたに、ぼくの何が分かるんだ!」
 露伴が叫んだ途端、承太郎の目が鋭くなる。初めて見たそれに驚いている隙にベッドに押し倒された。恐ろしく強い力で腕を掴まれ、身動きが取れない。
「お前とは少し事情は違うが、分からないわけじゃねえ」
「それって、どういう」
「腹にでかい穴を開けられて死んだ奴がいる、おれの仲間だ。お前くらいの歳の頃にな」
 とんでもない話を聞いて絶句した。承太郎の仲間はどんな状況で、どういう手段でそんなふうに殺されたのか。普通では考えられない死に方だ。気になったが、彼の 表情を見ていると興味本位で尋ねられるものではなかった。
「おれが着いた時には、もう手遅れでな。おれの知らないところで殺されて二度と戻って来ねえ。そいつといた時間は長くはなかったが、大事な仲間だった」
 近い距離でこちらを見下ろしているその表情が、苦しそうに歪んだ。
 腕を掴んだ力が緩んでも、露伴は逃れようとはしなかった。今の心境を上手く言葉にはできないが、多分同情ではない。
「ぼくのほうこそ、あんたのこと何も知らなかった。悪かったよ」
 露伴の言葉に承太郎は首を左右に振ると、身を起こして再びベッドに腰掛ける。その背中を眺めているだけで、死んだ仲間を思い出しているのだと何となく分かった。
 慰め方ひとつ思いつかない。そんな自分は、本当にまだ子供だ。




「今日、あんたに会いに行って良かったかもしれない」
 途中まで送るという承太郎と共に、アパートへ向かう道を歩きながら露伴は言った。
 あれからいかがわしい展開になることもなく、少しだけ違う話をしてからホテルを出て今に至っている。正直、押し倒された時はどうなるのかと動揺したが。
 もし海で別れて再び会うことなく地元に帰っていたら、承太郎の過去も苦しそうな表情も何もかも知らないままだった。自分の行動は間違っていなかったと思う。
「一歩間違えていれば、お前に手を出していたかもしれねえな」
「あんたは結婚しているのに、男のぼくにキスするような悪い奴だから。そうなる可能性も考えていた」
「確かにおれは、悪い奴だ」
「自覚あるのか?」
「まあ、な」
 小さく呟いて、帽子のつばを下げるその仕草はどこか憎めない。
 信号の前で、承太郎が足を止める。ここでお別れだ。自分達は、これ以上一緒にいてはいけないのだ。
 横断歩道のそばで車が止まり、歩行者用の信号が青になる。湿っぽい別れ方は嫌だったので、それじゃあ元気でとだけ告げて露伴は承太郎に背を向けた。心の奥底にある名残惜しさは、 時間が経てば忘れられるだろう。
 道路の向こう側へと踏み出した時、一瞬だけ違和感があったがすぐに消えた。しかしいつの間にか、唇や舌には覚えのある煙草の味が残されていた。これは海辺で承太郎とキスした時に感じたものと同じ味だ。 気付かない間に一体、何が起こった?
 承太郎の姿が遠ざかった今では、永遠に謎のままだ。




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2011/11/8