部屋を出たところで、壁に背を預けて立っていた承太郎と目が合った。
 入れ替わりにこの部屋に入るのかと思ったが予想は外れ、ドアを閉めて階段へ向かう露伴の隣を歩く彼に、思わずため息が漏れる。
「様子、見に行かないんですか」
「昼前に顔を出したんだが、すぐに追い出された」
「……またですか」
 あなたという人は、と心の中で付け足しながら、露伴は階段を下りていく。両手で持っているトレイに乗った皿やグラスが小さく揺れて、音を立てる。食べかけの料理は、 半分も減っていない。まだ食欲がないのだろう。
 先ほど露伴がいたのは夫婦の寝室だが、実際は承太郎の妻がひとりで使っている。彼女は昨日から出た熱が下がらず、先ほど訪ねてきた医者から貰った薬を飲ませながら主に看病しているのは、 夫である承太郎ではなく使用人の露伴だ。これも仕事のうちなので、看病については何の不満もない。それよりも気になるのは、承太郎はまたしても妻と気まずくなっている という事実のほうだった。
 一時は何とか持ち直して解決したように思えたが、露伴が知らないうちに再び仲が冷えてしまったらしい。承太郎の妻は気性が激しい部分があるので、一度火がつくと厄介だ。 何日も挨拶すらしないというのは当たり前で、酷くなると娘の徐倫を連れてこの館を飛び出していく。ここまで来ると修復が難しくなる。
 夫婦の争いに露伴は仲裁に入ることはないが、気の利いた言葉が上手く出てこない承太郎の背中をさりげなく押すという役目が、いつの間にか定着していた。明らかにこれは 使用人の仕事の枠を超えているが、見て見ぬ振りができないのだから仕方がない。自室にこもっているだけならまだしも、館のあちこちでぼんやりと立っていたり、まともに 食事をとらなかったり、そんな危うい様子を見せられては、どうしても放っておけなかった。見た目だけなら落ち着いているようで、実は面倒な性格をしている。
 何があってもおれを置いていかないでくれ、という承太郎の台詞を思い出す。妻子持ちのいい歳をした男が、年下の使用人にそんなふうに縋るのは考えられないことだ。
しかし、そんな彼にずっと仕えていくと誓ったのは自分だ。時々は呆れながらも、心のどこかでは愛しいと思っている。
「なあ、露伴」
「自分で考えてください」
「まだ何も話していないだろう」
「この状況で、そんな顔でぼくに話しかけてくることなんて決まっているでしょう」
 図星だったらしく、隣で承太郎が黙り込む。気まずくなった妻に対して、どうすれば良いかアドバイスを求めているのだ。放っておけない気持ちもあったが、たまには本人に 解決させることも必要だ。いつまでも子供のようでは困る。
 立ち止まった承太郎を振り切り、露伴は早足で厨房に向かう。これからやるべき仕事がまだ残っている。それらを頭の中でリスト化して、ひとつひとつ順番にこなしていく。 全て片付けた後、ようやく自由の時間が手に入る。わずかなものだが、息抜きに絵を描いたり本を読んだりする貴重な時間だ。
 歩みを進めるごとに、胸の中に生まれた重苦しい何かが大きくなっていく。本当は、妻を相手に器用に立ち回れない承太郎を助けたい。そんな気持ちを抑えてここまで歩いて きたのだが、やはり無理だった。
 ゆっくりと振り向いた先では承太郎が、先ほどと同じ位置でこちらを見つめている。再び目が合った瞬間、強く弾けた感情に今度は忠実に、露伴は大切な主人の元へと向かった。




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2011/12/7