破片/前編 買い物袋の持ち手が重みのせいで、ぎりぎりと手のひらに食い込むのを感じながら億泰は自宅への道のりをゆっくり歩いている。 安くなっていたからと、つい買いすぎてしまったことを猛烈に悔やんだ。野菜を始めとする食材が重い。 兄を失ってから、食事は全て億泰が作っている。料理はあまり得意ではなかったが、こうなった以上は仕方がない。簡単なものなら何とか作れるようになった。 今のところ生活できる金はあるが、それは無限ではない。せめて卒業して働けるようになるまで、底が尽きないように大切に使わなくては。 金はものを言わず、温もりも感じない。しかし生活していくには必要不可欠なものだ。それは父親が自らを犠牲にして手に入れたものでも、今はそれに頼るしかない。 それにしても、両手を塞いでいる買い物袋が重すぎる。あと数分歩けば家に着くのだが、そろそろ挫けてしまいそうだ。かと言って微妙な距離のためにタクシーを使うのは抵抗がある。 すでに何度かのため息をついた時、前方から歩いてきた人物が億泰の前で足を止めた。それは頻繁に顔を合わせている男だったが、見慣れた服装ではなかったので一瞬戸惑った。 決して派手ではないが高価そうなコートを着ており、それがよく似合っている。 「……億泰サン?」 背の高い異国の男が、億泰の名前を呼びながらこちらを見つめていた。 億泰の隣を歩いている男が持っている買い物袋が、がさがさと音を立てている。歩くたびにせわしなく揺れる袋の音を聞きながら、億泰は隣の男を見上げた。 「良かったのかよ……俺の荷物、持たせちまって。あんたもこれから、どこかに行くんじゃねえのか?」 「ワタシのことは気にしないでクダサイ、どうせこれから家に帰るだけデス」 そう言って男は微笑んだ。まるで億泰を安心させるかのように。彼の好意で、今まで億泰の両手に下がっていた買い物袋は片方だけになっている。 この男は杜王町でレストランを経営している、トニオというイタリア人だ。億泰は彼の作る料理を気に入っており、何度か食べに行っているうちにトニオ自身とも仲良くなっていた。 元からイタリア人のセンスは好みだった億泰にとっては、相性の良い相手なのかもしれない。 話をしながら歩いているうちに、億泰の家に着いた。隣ではトニオが家を見上げている。 「ここが億泰サンの家デスか」 「ああ、ちょっと変わってるけどよ……」 「そんなことないデス、立派な家だと思いマスよ」 客商売をしているせいかどうかは知らないが、トニオはお世辞が上手いと思った。その辺の家とは明らかに雰囲気の違う、怪しい家のどこが立派なのか。 「それじゃ、ワタシは帰りマスね」 買い物袋を億泰に手渡しながら言う、トニオの声で我に返った。ここまで荷物を運んでもらって、あっさり帰すわけにはいかない。日頃の恩もあるので、何か礼をしなければ。 「あの、良かったらうちに寄っていかねえか」 「いいんデスか……?」 トニオは遠慮がちに言いながらも、その表情は少し緩んでいる。 「あんまりきれいじゃねえけど、それでもいいなら」 「億泰サンの家に招かれるなんて、嬉しいデス」 億泰が門の扉を開けて入ると、トニオも後ろからついてきた。 廊下を歩いていると、階段の上にある部屋から物音が聞こえてくる。それに混じって呻き声のようなものまで上がり、億泰は思わずそちらに視線を向けてしまった。 きっと腹を空かせているのだろう。しかし今日はもう少し待っていてくれと、胸の内で頼んだ。 「億泰サン、今のは何の音デスか?」 「な、何でもねえよ。気にすんな」 トニオには前から、父親は重い病気なので部屋でずっと寝ているのだと伝えてある。事実を話せば長くなる上、トニオの反応が怖かった。全てを打ち明ける勇気がない。 億泰が今、トニオに対して抱えている唯一の秘密だった。いつまで隠し通せるかは分からないが。 「あのさトニオ、あっちの部屋に行こうぜ」 とにかくここから離れようと、億泰は遠くにある部屋のドアを指差した。しかし遅かったようだ。階段の上の部屋から激しい音が聞こえた直後にドアが開き、中から出てきた 身体がまるで物のように、ごろごろと階段を転がり落ちてきた。 「親父、何やってんだよ!」 床にうつぶせになっている身体に向かって叫ぶと、億泰は慌てて駆け寄った。父親は重い身体を思うように動かせず、小さな子供のような動作で手足をばたつかせている。 「この方が、億泰さんのお父様デスか……?」 転がったままの父親を助けようとした時、トニオの言葉で伸ばしかけていた手が止まった。トニオは驚いたような表情で、億泰の父親を見つめている。人間とはかけ離れ、 生きた肉塊となったその姿を。 全てばれてしまったのだ、ずっとトニオについていた嘘が。 「これは、その……ああ、そうだよ! こいつが俺の親父だ……!」 今更ごまかすことはできず、億泰はトニオに向けて叫んだ。背を向けられてしまうだろうか。そうなっても仕方がない、誰が見ても異常なのだから。 トニオは無言のまま前に進み出ると、億泰の父親と目線を合わせるようにして床に両膝をついた。そして何のためらいもなく、片手を差し出す。 「初めマシテ、トニオ・トラサルディーという者デス。イタリアから来マシタ、料理人デス」 もはや人間の言葉が通じるかすら分からない相手に、トニオは丁寧に名乗った。億泰の父親と真剣に向き合っているのだ、姿など気にしていないかのように。 「立てマスカ?」 そんなトニオに何かを感じ取ったのか、億泰の父親は大きな鳴き声を上げながらトニオの手を握った。そんな様子を、億泰は信じられない気持ちで眺めていた。 あれからトニオは3人分の夕食を億泰の家で作り、皆で一緒に食べた。やがて家に帰ると言ったトニオを見送るため、億泰も家を出て門の外まで歩いた。 「今日、びっくりしただろ」 「何のことデスか?」 「いや、だってよお……俺の親父が、あんな」 続きを言いかけた億泰の唇に、トニオの指先が触れて言葉を遮られた。 「自分の家族を、そんなふうに言ってはいけマセン」 トニオの人差し指が唇から離れていくのを、億泰は何も言わずに見つめる。 「言いたくない事情もあるデショウ、それにこの町は何が起こってもおかしくないデス。スタンド使いが何人も居て、幽霊だって存在している」 「トニオ……」 「お父様のことでワタシが、億泰サンから離れるとでも思っていまシタか?」 目が合った瞬間に胸が急に熱くなり、億泰は泣きそうになった。 「離れねえでくれよ、さっき嬉しかったんだ……俺」 そう訴える億泰の髪に触れたトニオに突然抱き寄せられ、驚いて息を飲んだ。高価そうなコートに、溢れてきた涙が染み込んでいく。それでも止めることはできない。 人の通らない夜道で声を殺して泣きながら、億泰は本当に久し振りに、誰かに甘えることの心地良さを思い出してしまった。 |