懲役半日 両手に提げたスーパーの買い物袋の重さで、仗助は気分が滅入っていた。これはひとりの人間が持てる量の限界を、余裕で超えているのではないかと思う。 しかも今日はとにかく寒い。冬物のジャケットは着ているが、手袋を忘れたせいで手が冷えきっている。 そんな時、前方から康一と由花子が歩いてくるのが見えた。 今日は日曜なので、デートでもしているのだろう。こちらとは幸せの度合いが天地ほどの差がある。まともに青春を謳歌できる二人が羨ましい。 「あれっ、仗助君! 買い物の帰り?」 「あ、ああ……まあな」 「それにしてもすごい量だね」 「ちょっと頼まれちまってよお、まあ何とかなるだろ」 康一とそんな世間話をしていると、由花子がものすごく恐ろしいオーラを放ちながらこちらを見ていることに気付いた。邪魔すんな、とでも言いたげな鋭い目線がぐさぐさと突き刺さってくる。しかもそばに居る康一には見えない角度から。 数分後に康一と由花子と別れ、仗助はバス停へと向かった。実は今とても喉が渇いているのだが、ジュースを買う心の余裕はすでに削り取られている。 あと六時間、それだけの時間が経てば解放されるのだ。 そもそもこの買い物を仗助に命じてきたのは母親ではなく、あの性格の歪んだ漫画家・岸辺露伴だった。 数日前、学校帰りに上がり込んだ露伴の仕事部屋から全てが始まった。 棚に飾ってあるアニメか漫画のキャラクターらしい、人形のようなものを手に取って眺めていると、仗助の手からそれはあっけなく滑り落ちていった。 固い床の上で、それは腕が折れて無残な状態になってしまい青ざめた。しかもその瞬間を、露伴はそばで見ていた。空気が凍りついたのをよく覚えている。 『おい仗助、これはレアもののフィギュアだぞ! どうしてくれるんだ!』 『マジかよ……本当にごめん! 今元通りに直すか』 ら、とそのまま続けて口に出す前に、仗助は露伴の強烈な拳で殴り飛ばされて床に尻をついた。顔を上げると腕を組んだ体勢の露伴が、怒りに燃えた目でこちらを睨んでいた。 『お前、壊したら何でも直せばそれで全部収まるとでも思っているのか! 僕もずいぶん甘く見られたものだ』 『あんたをバカにしてるとかじゃなくて、俺にできることっていえば今はこれしかねえからさ……』 『その腐った根性、僕が叩き直してやるよ! 今度の日曜、この家に来い!』 こうして迎えた日曜の朝九時から夜の九時までちょうど半日分の時間、仗助は露伴から様々な雑用を任されることになった。 最近は仕事が増えて忙しいので、いつも自分ひとりでやっている家事にまで手が回らないらしい。 乗ったバスに揺られ、仗助は一息ついて疲れた身体と頭を落ち着かせた。少しの間だけでも、重い荷物を置いて手放せるのは有り難い。 やがて露伴の家に着くと、買い物袋を台所近くのテーブルに置いて風呂掃除の準備を始める。家主が取材から帰ってくるまでに、一通りのことは済ませておかなければならない。 後は夕飯の支度をして、それから……などと考えながら風呂場のドアを開けた途端、中から広がってきた湯気が仗助を包んだ。 更にその向こうでは、この時間は確か外出しているはずの露伴がシャワーを浴びていた。 驚きや怒りが複雑に混じったような表情の露伴と目が合うと、思わず後ずさってしまった。 「えっ、何で……今は取材に行ってんじゃねえのかよ!」 「気分が乗らなくて、途中で帰ってきたんだ! 悪いか!」 「いや、全然悪くねえけど!」 「早く閉めろ、寒いんだよ!」 そんな激しいやり取りの後、仗助は慌ててドアを閉めた。 シャワーの音や中の照明にも気付かないほど深く、あれこれ考えていたのだろうか。自分が信じられない。 それにしても予想もしていなかったタイミングで、露伴の裸を見てしまった。動揺していたので全身をじっくり見たわけではないが、前髪の下りた露伴は新鮮でどきっとした。 男相手にこんな感情、自分はどこかおかしいのかもしれない。 買ってきた材料で仗助が作ったスパゲティを、露伴は特に文句も言わずに食べている。料理はそれほど得意とは言えないので、この程度のものしか作れない。仗助が家で食事を作るのは、母親が仕事で遅くなった時くらいだ。 仗助自身もここで食べておかなくては、残りあと二時間とはいえ身体がついていかない。昼食の時と同じように、露伴の向かい側に座ってスパゲティを口に運んだ。 半分ほど食べたところで、仗助はフォークを置いて顔を上げる。 「……なあ露伴。俺さ、あんたに感謝してんだよ」 「何だ、急に」 「壊したもんは直せば全部解決するなんて思ってなかったけどよ、それは自覚してないだけで本当は、心の片隅にはそういう考えがあったかもしれねえ」 買い物帰りのバスの中で、仗助は今回の件について色々考えていた。お前はろくな大人になれない、とまで露伴に宣言された時は正直腹が立ったが、今思うとあの言葉は間違ってはいない。 小さい頃、母親が大切にしていた高価なグラスを割ってしまったことがある。母親が怖かったので、こっそりとスタンドの力で割れたグラスを直しておいた。そのおかげで怒られずに済んだが、自分の失敗を無かったことにしてごまかしたという現実までは消えない。直したものを壊したとは言えず、当時の出来事は胸に抱えたまま結局ここまで来てしまった。 自分のスタンド能力は、失敗をごまかすためのものではないと分かっているのに。 「あんたはそれを気付かせてくれたんだ。俺はまだガキっていうか、すげえバカだった。俺が壊したあのフィギュアのことを償うには、十二時間じゃ足りねえかもな……」 露伴は仗助の言葉には何も返さずに、無言でスパゲティを食べ続けていた。まだ怒っているのか呆れているのか読めず、仗助は不安を感じながら再びフォークを握った。 夕飯の後片付けを終えた後、他に用事はないかと露伴に聞くと深いため息が返ってきた。自分で考えろなどと無謀なことを言ってくるのかと思ったが、どうやら違うようだ。 「特に、何もないな」 「でもあと一時間残ってるぜ」 「ないって言ってるだろ、とりあえず僕の邪魔にならないところで適当にやってろよ」 何もないから帰れとは言わないのか。仕事部屋で原稿に向かっている露伴に、これ以上何かを仗助に命じてくる様子はなかった。 先ほど食事をしていた部屋のソファに座り、テレビの電源を入れる。毎週この時間に放送しているバラエティ番組を観ていると、突然ドアが開いて露伴が入ってきた。 「まだ時間はある、僕の言うこと聞けよ」 「ああ、分かってる」 「僕にキスしろよ」 「……えっ?」 とんでもないことを言われた気がする。しかも、あっさりと。 「ちょっと待て、えっと」 「どうした、早くやれ」 露伴は仗助の隣に座り、顔を近付けてきた。こんなに至近距離で視線を合わせるのは初めてで、動揺を抑えられない。 背後のテレビから聞こえるタレント達の笑い声が、遥か遠くのものに感じるほどに。 「漫画を描くために必要な経験なんだよ。頭の中で想像するだけじゃ、リアリティに欠けるからな」 「だからって俺を相手に……ていうかさ、もしかしてあんたキスしたことねえの?」 仗助の問いに、露伴は急に顔を引きつらせて睨んできた。 そこに触れてはいけなかったのかもしれないが、純粋に疑問を持ったのだから仕方がない。 「うるさいんだよ! したことがある奴はそんなに偉いのか!」 「誰もそこまで言ってねえだろ!」 言い争いになりながらも、露伴が今まで誰の唇も知らなかったという事実が意外すぎて正直かなり驚いている。 「もう時間がない、さっさとしろよ……」 そう言われて壁の時計を見ると、八時五十五分になっていた。おそらくこれが、露伴からの最後の要求になる。これを済ませれば、ようやく家に帰れるのだ。 震える手で露伴を抱き寄せ、唇をゆっくりと近付ける。露伴はずっと目を開けたままなのが気になったが、相手の顔を見るのも重要だと考えているのだろうか。 しかし後数センチという距離まで来て、仗助は動きを止めると身体を離した。 「やっぱり、できねえ」 「何言ってんだ、お前」 「こういうのって、お互いに愛し合ってる奴同士がするんだろ。でも露伴は、ただ漫画のためにやりたいだけじゃねえか」 「……仗助」 「俺はこんな形で、あんたとキスしたくねえんだよ。ちゃんと好きだって気持ちがこもってないと、嫌だ」 まるで遠回しに告白しているようだと思い、言ってから恥ずかしくなった。 「面倒な奴だな……もういい、帰れよ!」 露伴はソファから立ち上がると、不機嫌そうに背中を向けた。雰囲気が険悪になってしまったが、これだけはどうしても譲れないものだった。 ごめん、と小さく呟いても露伴は沈黙したままだ。 仗助は部屋を出て、玄関で靴を履きながら考える。 今日は朝からこの家で雑用をこなしていくうちに、露伴と一緒に暮らしている気分になっていた。 もし実際に同居すればもっと大変だろう。年中露伴のわがままや気まぐれに振り回され、毎日のように喧嘩して、おそらく身体がいくつあっても足りない。 それでも抱き寄せて唇が触れ合う直前までは、このままキスしたいという気持ちに背中を押されていた。結局は理性が勝ってやめてしまったが。 こんな別れ方をして、次に露伴と会う時はどんな顔をすればいいのか分からない。 「仗助!」 突然後ろから聞こえてきた声と共に、腕を掴まれ引っ張られる。驚いて振り向いた途端、すぐそばに居た露伴と唇が重なった。 一体何が起こったのか、あまりにも動揺しすぎて把握できない。 「いくら漫画のためとはいえ、どうでもいい相手とキスなんかするか!」 「……露伴、あんた」 「僕の唇はそんなに安くないぞ、覚えておけ!」 一方的に言いたいことを吐き出した露伴は、強引に仗助の背中を押して玄関から追い出した。 仗助は閉められたドアの前で呆然と立ち尽くしていたが、我に返ると必死でドアを叩く。 「今のどういう意味だよ! 開けろって! ろっはーん!!」 外の寒さよりも、わずかな時間だけ重なった唇の温もりや感覚が、仗助の意識を支配していた。露伴には言っていなかったが、あれが仗助にとっても初めてのキスだった。 今はとにかく、もう一度露伴に会いたい。そして最後の言葉の意味を確かめたい。 夜の九時を、十分ほど過ぎた頃の出来事だった。 |