傷跡





汚い野良犬かと思ったぞ、とこちらを見下ろしてくる男に嘲笑されて、仗助は眉をひそめた。
バスターミナルの池の前に座り込んで十数分、傷付いた全身の痛みは未だに癒されないままだ。毎朝時間を惜しまず整えてくる自慢の髪型も乱れ、悲惨なことになっている。 ちょっとした不注意でこんな目に遭った。
いつものように言い返す気力も生まれてこない。もう少し休めば多分動けるようになるので、いい加減放っておいてほしい。 口の中に広がった血の味を思い出すだけで気分が悪くなった。下がる一方のテンションに拍車がかかる。

「もう、さっさとどっか行ってくれませんかね。先生」
「こんな面白い眺め、なかなか見られるものじゃないからな」

目の前に立っている岸辺露伴の口元が笑いの形に歪む。前から知っていたが本当に悪趣味な男だ。漫画の才能の裏で、どこか壊れているのかもしれない。
嫌いな相手にわざわざ絡む、そんな心境は永遠に理解できない。こちらはなるべく接点を持たないようにしているというのに。

「スタンド使いにでもやられたのか?」
「どっかの学校の奴らっスよ、後からすげえ人数連れてきやがった」

むしゃくしゃしていたから誰かに絡むという悪質な趣味は持っていないが、たまに理不尽に絡まれる時がある。原因はこの目立つ格好にあるのだと分かっていながらも、 今更やめる気はなかった。幼い頃の恩人に憧れて真似した髪型も。
複数相手に乱闘になったものの、何とかいけそうだと感じた時に、池から突然姿を現した亀に動揺して隙を見せてしまった。少しの間好き放題に殴られ蹴られていたが、 髪型を貶された途端に激しい怒りで周りが見えなくなり、気が付くと全員片付けていた。
それまでは出さなかったスタンドも、いつの間にか発動していた。一般人相手にはなるべく使わない、という理性も空しく吹き飛んでいたようだ。

「その汚い格好で家に帰るのか」
「こうなっちまったもんは、仕方ねえ」

母親には呆れられるかもしれないが、このまま帰るしかない。スタンドの力でも、自分の傷は治せないのだから。
露伴はそんな仗助に、明らかに何かを企んでいるような表情で身を乗り出してきた。

「僕の家に来い、絆創膏くらいならくれてやる」
「あんたの世話になんか、なりませんよ」
「弱ったお前を見つけて、また絡んでくるかもな。獲物に群がる飢えた獣みたいな連中に」

想像するだけでうんざりするようなことを言われた。何がなんでも自分の思い通りに話を進めたいらしい。しかしこの状態で囲まれたら非常にまずいことになりそうだ。
ここまで車で来ているという露伴の、好意のようなものに乗ることにした。心から信じているわけではないが、この場所に留まっているよりは良いかもしれない。


***


客間で待っていると、露伴が白い箱を持って戻ってきた。差し出されたその中には包帯や消毒薬、ガーゼなどが大量に入っていた。
この先何年かは困らないほどの量に少し驚いていると、どこかの誰かにやられた時の傷が長引いたせいだと皮肉たっぷりに言われた。いつまでも根に持ちすぎだ。
手持ちの鏡で顔を見ながら、脱脂綿と消毒液を使って手当てをする。瀕死状態の他人はすぐに蘇生することができても、自分の掠り傷は自然に治るのを待つしかない。 攻撃以外にも便利な力を発揮するクレイジーダイヤモンドは決して無能ではないが、素晴らしく万能でもない。長所と短所があるのは人間も一緒だ。
自力で傷の手当てをする仗助の様子を、向かいのソファに座る露伴がじっと見ている。先ほどからどこか落ち着かなかったのは、そのせいだ。

「なんつーか、あんまし見ないでほしいんですけど」
「ここは僕の家で、それに手当ての道具を貸してやってるのも僕だ。文句あるか」
「わかんねえ……」

本当に、この男の思考回路が分からない。文句も出てこないほど呆れて深く息をついた。
巧みな言葉に乗せられてついてきたことで、大きな借りを作ってしまった気がした。消毒液が傷にしみて痛い。その感覚で顔をしかめたところまで見られている。これは完全に拷問だ。
小さな傷には絆創膏を貼り、一通りの手当ては終えた。ここまでたどり着くのに、やけに長かったように感じた。
この大きな家に、露伴はひとりで暮らしていることを思い出す。例外を除いてめったに他人を招き入れないらしい、家主の恐ろしく偏った精神そのものだ。 今日はその例外に何故か、嫌われているはずの自分が選ばれた。これ以上何かを企んでいるのか、それとも話し相手が欲しかったのなら、康一のほうが適役だろう。
やたらと絡んでくる露伴に対して警戒しているはずの仗助自身も、結局ここまで付いてきて手当ての道具まで借りてしまった。何だかんだ言いながらも関わっている。
この借りはいずれ返さないといけない。しかしどうやって返せばいいのか思いつかない。

「……そういえば先生、背中の傷は良くなったんスか。スタンドにやられたっていう」
「どうしてそれを」

康一から聞いた、と告げると露伴は気まずそうな表情を浮かべた。先生の怪我は僕のせいだと落ち込んでいた康一を思い出す。しかしスタンドに取り憑かれた露伴を救う ためにやったことで、決して悪意はなかった。露伴もそれは分かっているだろうし、多分恨んではいない。いくら曲がった性格でも、康一の気持ちが分からないほど非情 ではないと信じたい。

「今日のお礼に、俺が治そうかと思いまして」
「な、何で僕がお前なんかに」
「俺があんたにできることって言えば、それしかないですし」

もし傷が残っていても、この能力ならきれいに消せる。普段から露出の高い服を好んで着ているのなら尚更、仗助の提案を受け入れて損はないはずだ。

「お前が治すってことは……僕は服を脱がなきゃいけないのか」
「そんなの当然じゃねえか」
「……なっ」

露伴は絶句して仗助を睨み付けた。実は服を脱がさなくても、矢に胸元を射抜かれた康一を治したことがあるのだが、それは言わなかった。仗助が誰かの傷を服を脱がさずに 治しているところを露伴は見ていないはずだ。サイコロ賭博の日に能力を使って治したのは露伴の指だったので、服は関係ない。
嘘をついた理由は、スタンドにどんな傷を付けられたのか興味があったからだ。こんな自分は、人の性格をとやかく言えないほど歪んでいるのかもしれない。 普段なら、いくら興味があっても素直に見せてもらえるはずがないので良い機会だ。

「分かった、でもお前に心を許したわけじゃないからな」
「期待してませんよ、そんなこと」

向かい側からこちらに移動してきた露伴は、仗助の横に腰を下ろす。ふたり掛けのソファがもうひとりの体重を吸いこんで、かすかな音を立てた。
背中を向けた露伴が、着ている服を捲り上げて肌を見せる。肩の辺りから縦に数本、抉られたような傷跡が刻まれていた。半分治りかけている様子だったが、 これは男の身体だということを差し引いても、あまりにも生々しすぎだ。興味本位で見たのが、申し訳なくなってくる。

「何やってるんだ、早くしろ」
「今やりますよ」

そう言いながらスタンドを出しかけたが、すぐに引っ込めてしまった。背を向けて、無防備に肌を見せる露伴に対しておかしな気持ちになった。自分でも信じられない。 無駄な肉は一切ついていない背中に触れて、傷跡のひとつを指で辿っていく。流れにそって動かしていくと、露伴がびくっと震えた。肩越しに睨まれる。

「そんないやらしい触り方をしないと、治せないのか」
「どんな具合か確かめただけじゃないっスか、変な想像しないでくださいよ〜」
「そうさせてるのはお前だろう!」

顔を真っ赤にしている露伴をからかうのはここまでにして、今度こそスタンドを出すと背中の傷跡に手をかざした。するとすぐに、何もなかったかのように傷ひとつない 肌へと戻っていく。初めて見た露伴の本来の背中はこんな感じだったのかと、何となく凝視してしまった。

「終わりましたよ、先生」

声をかけてみたが、露伴は何も答えないまま動かない。どのような表情をしているのかこちらからでは分からないが、妙な胸騒ぎがしてきた。

「……やっぱりお前はウソつきだな」
「えっ?」
「本当は、脱がさなくても治せるくせに僕を騙した」

固い声で告げられた一言が、仗助の胸を鋭く射抜いた。もしかすると最初から知っていたのかもしれない、本当のことを。露伴が何も知らない振りをしていた理由は 分からないが、それを考えている余裕はなかった。振り返った露伴は服を整えないまま仗助をソファの上に突き飛ばし、覆いかぶさってきた。
予想外のとんでもない展開に焦るばかりで言葉が出てこない。

「何度も僕を騙せたつもりになって、いい気分だろうな」
「いや、あの、悪気はなかったんですって。ちょっとしたアレでして」

傷への興味が、と言おうとした途端に露伴のスタンドが出現した。頬の一部が捲り上がり、何かを書きこまれたのが分かる。そして両足が動かなくなったことに気付いた。
露伴は逃げられなくなった仗助を、薄く笑いながら見下ろしてくる。顔がかなり近い距離で。

「ガキのくせに、悪知恵だけは一人前だな。仗助」
「そういうあんただって、全部分かってて俺に身を任せたんだろ」
「うるさい! 口応えするな!」

怒声を上げる露伴に掴まれた手首に痛みが走った。それほど強い力ではなかったが、そこは池の前で絡んできた連中のひとりに踏まれた部分だった。思わず声を上げながら 身をよじると、体勢を崩した露伴がソファに仰向けになっている仗助の上に倒れ込んできた。前触れもなく身体が重なって混乱する。
微妙というか穏やかではない関係の相手のはずが、嫌悪とは違う感情ばかりが生まれてきて困った。先ほどから心臓の音がやけにうるさくなっている気がした。

「脱がさなくても治せるって知ってたくせに、何で俺に傷見せてくれたのか気になる」
「……お前に教える必要はない」
「それってそんなに言えないこと?」

露伴の耳にそう囁いた時の息が、自分でも熱く震えているのが分かった。嫌いだと言いながらも家に呼び、手当ての最中も視線を常に外さず、スタンドで両足を拘束されて いる仗助とは違って自由に動けるはずが、離れようとしない。不思議な矛盾がいくつも重なり、本当はどう思われているのか知りたくなる。 訊ねたとしても、返ってくる答えは分かっているが。
傷跡を治した背中に手をまわし、服の裾から中に指先を滑らせていく。なめらかな肌は、少し前に触れた時よりも温かくなっていた。仗助の肩を掴んでいる露伴の指に、 ぎゅっと力が入ってきた。顔は頑なに伏せられているので、表情は見えない。
突っ走ってしまいそうな気持ちを必死で抑えながら、服の下から手を抜いた。

「これ以上は、やめときます」

そう言うと、顔を上げた露伴と間近で視線が重なる。今まで見たことのない、濡れたような目に胸の奥が熱くざわめいた。 理性に従い、愛撫を途中でやめたことを悔やむほどに。

「俺、純愛タイプなんで……相手の気持ちを大事にしたいから。それに俺は、あんたに嫌われてるし」

まるで自分にも言い聞かせるように、勝手な想像ではない真実を口に出す。乱れた露伴の髪に触れた指先を目で追いながら、これから先は今まで通り距離を置いたほうが いいのか、それとも無意識にうちに生まれていた気持ちに従うべきなのか、ぼんやりと考えた。




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2009/9/27