感情の名前/前編





放課後、立ち寄ったコンビニで買い物をしてレジを離れると、雑誌のコーナーに居る康一が何やら悩んでいるような顔をしていた。
康一は漫画雑誌の一番最後にある目次ページを開いている。漫画本編ではなく、何故目次を見ながらそんな顔をするのだろうか。康一の肩越しに雑誌を覗き込んでいた 仗助の気配に気付いたのか康一は、ようやくこちらを振り返った。

「どうした康一、そんな難しそうな顔して」
「うーん……今週の露伴先生の漫画、何かおかしいんだよね」
「何かって?」
「いつもより迫力に欠けてるっていうか、物足りない感じなんだ……それにほら、掲載順位も最近は下がってきてるし」

そう言われても何のことか分からなかったが、康一の説明によると露伴が漫画を連載している雑誌は読者アンケートを重視する傾向にあり、読者の票を多く獲得している 人気の漫画ほど、雑誌の前のほうのページに掲載される仕組みになっているらしい。
掲載順位が下がるということは、その漫画から読者が離れているという意味だ。その週の漫画の展開にもよるだろうが、あまりにも低迷が続くと連載を 打ち切られてしまうという。
露伴の漫画は常に上位クラスの人気を保っていたが、それが最近では微妙に落ち込んでいる。順位が大幅に下がっているわけではないが、康一は以前から露伴のファンで 応援し続けているので心配しているようだ。

「先生、もしかしたら行き詰ってるのかも……ちょっと様子見に行かない?」
「お前ひとりで行ったほうがいいんじゃねえの、俺まで行ったらあいつ気分悪くなるだろ」
「でも先生って、僕には優しいけど本音を見せてくれない気がするんだ」
「何でもかんでも、本音を見せればいいってもんじゃねえよ」

仗助が言うと、康一は無言で雑誌を閉じて棚に戻す。その様子を見て、少し冷たく言いすぎただろうかと後悔した。まるで目の前の康一も、ここには居ない露伴をも 突き放したような気分になった。それでも普段の、露伴から仗助に対する噛みつくような態度や鋭い目線を思い出すと、とても康一と共に露伴を訪ねる気分にはなれない。
不安定な時だからこそ、心を許した相手に励まされたほうが良いに決まっている。そうすれば露伴も癒されて、また今まで通り漫画を描くことができると思った。
露伴の家に行くという康一と別れ、仗助はひとりで自宅へと向かう。これで良かったのだと自分に言い聞かせながらも、胸に何かが引っかかったまま消えなかった。


***


翌日、登校中に康一と顔を合わせたのでふたりで学校へ向かう。その最中に露伴の様子を尋ねてみると、康一はため息をついた。

「いつも通り、先生は僕にお茶とお菓子をごちそうしてくれて、心配ないよって笑ってくれた」
「そうか」
「でも、僕が本当に先生を励ませたのか、あんまり自信ないんだ」
「あいつだって、お前が来てくれて嬉しかったと思うけどな」

俺が行くよりは、と口には出さずに付け加えた。もし自分もついて行こうものなら、また罵り合いになって励ますどころではなくなるに決まっている。 一方には優しくして、もう一方には容赦なく攻撃して口論になる。同じ客人なのに180度違う扱いをされては、さすがに黙っていられない。
そういえばしばらく露伴の顔を見ていないことに気付く。前なら会う気はなくても町の中で頻繁に遭遇していたが、最近は頻度が減っていた。行き先が交わらないのか、 露伴が外に出ていないのか、理由は分からない。
ちなみに顔を合わせて罵り合いにならなかったことは1度もなかった。

「先生、元気になるといいんだけど」
「……ああ」

校舎が見えてきた頃、同じ場所へ向かう生徒達のざわめきが大きくなり耳に届く。長年付き合っているわけでも、特別に仲の良い相手でもないのに何故か、露伴の顔も声も 生々しいほど記憶に残っている。
16年しか生きていない子供の自分には、この複雑すぎる気持ちの正体が見えない。


***


「お前が漫画読むなんて珍しくね?」

コンビニで漫画雑誌を手に取った仗助に、億泰が意外そうな顔で指摘してきた。今まで自ら進んで漫画を読むことはなかったので、周りの人間から見れば驚くかもしれない。
別に漫画を読みたかったのではなく、これは露伴が漫画を連載している雑誌だからだ。先週、このコンビニで康一が教えてくれた。今日は月曜なのでアイス屋に寄りたいと 言う億泰を、何とかなだめてここに立ち寄ったのだ。
最後の目次ページを開き、露伴の漫画のタイトルを探す。とにかく掲載順位が上のほうであれば安心だ。 しかしどこにも見当たらず、雑誌を間違えたのかと思った。困惑していると目次の下のほうに『ピンクダークの少年は、作者都合のため休載します』と書かれていた。
作者都合とは何だろう。体調でも崩して描けなくなったか、それとも原稿が間に合わなかったか。露伴は短期間で原稿を終わらせるらしいので、あまり考えられないが。
雑誌を閉じた後、胸の奥から何とも言えない感情が生まれてきた。怒りでも悲しみでもない、知らない熱さだった。
とにかくこの感情を鎮めるためには、学校に行っている場合ではないと思った。

「億泰、俺すっげえ腹痛えから学校休むわ!」
「ええっ嘘だろ、おい!」

見え見えの嘘を言うとコンビニを飛び出し、学校とは違う方向へと走る。どうせ穏やかな展開にはならないだろうが、抑えられない衝動にただ従うしかなかった。


***


呼び鈴を鳴らして数分後に出てきた露伴は、記憶の中の姿とは違っていた。
いつものヘアバンドを付けていないので、長めの前髪が目元近くまで下がっている。 露出の高い服装は相変わらずだが、顔色があまり良くない。こちらを見る目に宿っているのは鋭さではなく、ぼんやりとした暗さだった。

「……誰かと思えばお前か、東方仗助」
「とりあえず生きてて安心しましたよ、先生」
「何の用だ、冷やかしなら帰れ」
「様子を見に来たんスよ。今週、先生の漫画が載っていなかったもんで」

仗助がそう言うと、露伴は眉をひそめてこちらを見据えた。露伴の漫画のことを本人の前で口に出すのは、これが初めてだった。なので意外に思われただろうか。

「康一君は来ていないのか」
「今日は俺ひとりで」
「まあいい、入れよ」

すぐに追い出されるかと思ったが、あっさりと中に招かれた。靴を脱いで露伴の後をついていく。通されたのは客間ではなく仕事部屋だった。机の上には真っ白な原稿用紙 が置かれている。それに加えて今の露伴の様子だと来週も休載になるような予感がした。
近くに椅子があるのに壁にもたれて腰を下ろす露伴の向かい側に、仗助も座る。

「描けないんだ、漫画が」
「えっ」
「自分でもこんなことは初めてだ、机に向かっても集中できない」

露伴の虚ろな目が、離れた場所にある大きな机を眺めた。喋る声はいつも仗助を罵る時のような強さが感じられない。調子が狂うというか、こちらまで不安になってくる。
スランプというやつだろうか。しかしそれを、素人の自分が口に出して指摘してはいけないような気がした。そうだとしても、言われるまでもなく露伴本人が分かっている。
漫画を描く理由は金や名声を得るためではなく、ただひたすら『読んでもらうため』だと聞いた。読んでもらうためには、描かないといけない。当たり前のことが、今は できずにいる。それが露伴にとってどれほど苦しいことか、抜け殻のような様子を見ていると伝わってくる。
どんなに辛くても露伴は多分、仗助に救いを求めたりはしない。プライドもあるだろうが、こればかりは他人に縋って解決できる問題ではないからだ。康一のように好かれて いない自分には、励ますことも癒すこともできない。こうして話を聞く以外は何も。
露伴の髪に、白い糸のようなものが付いていることに気付いた。服の色と同じなので、着替えた時に絡みついたのかもしれない。沈黙の中、それが気になって止まらず そこに手を伸ばした途端に露伴はびくっと身体を震わせる。

「……何だ?」
「あんたの髪に糸くずが付いてるんで、取ろうかと」
「やめろ、自分で取れる」
「自分じゃどの辺か分からないでしょ」

拒む露伴をよそに、糸くずを摘んで取ってしまう。その手の動きを緊張したような表情で露伴の目が追っていた。嫌いな奴にされるがままの状態でも、抵抗する気配はない。 そんな様子を見ていると、近くに居ない時でも露伴を思い出す度に感じていた複雑な気持ちがよみがえってくる。
手のひらは無意識に露伴の右頬に、包むように触れていた。なめらかな肌の感触が伝わってくるのと、何かを飲みこんだ露伴の喉が小さく動いたのは同時だった。

「もう、用は済んだはずだ……離せよ」
「俺にも何でこうなってるのか謎でして」
「お前がこの手を引っ込めれば済む話だろう」

本調子ではない露伴を、これ以上困惑させるのは良くない。罵りながら振り払ってくれればいいのに。 髪型が違うせいでいつもより幼く見える顔立ちで見つめられ、激しくなる心臓の音に冷静な考えを邪魔されてしまう。 こいつは顔を合わせる度に罵り合う岸辺露伴だ、と自分に言い聞かせるように頭の中で延々と繰り返しても、効き目がない。
手は離れるどころか意思に反して動き、親指が露伴の唇に触れた。震えるような息を指の腹に感じた途端、我に返った仗助は弾かれたように手を離した。
頭の中が、そして胸が熱く痺れている。

「ようやく分かった……だから、もう帰ってくれないか」

早く帰れ、というお馴染みの攻撃的な口調ではなかった。何故か露伴は俯いたまま、仗助と目を合わせようとはしない。それに、ようやく何が分かったというのか。 疑問は残ったままだが、とりあえず今日は帰ることにした。とは言え、まだ昼前なので今から遅刻してでも授業に出るべきかもしれない。ひとりでは退屈だ。




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2009/9/9