リアリティ 「承太郎さん、僕を殴ってください」 ソファに座って唇を重ね合い、かなり良い雰囲気になり始めた頃に露伴が口に出したのは、そんな言葉だった。 近い距離で向かい合い、こちらをまっすぐに見つめる目は真剣そのもので、冗談を言っているようには思えない。できれば聞き間違いだと信じたい。 「すまない、もう1度言ってくれないか」 「その手で、思い切り僕を殴ってほしいんです」 今度こそ、はっきりと聞こえてしまった。何せ聞き逃した振りをして改めて確認したのだ、間違いない。 「言いたいことは分かったが、そうしなければならない理由は何だ」 「実は今の連載で、主人公が敵に殴られる場面を描くんですけど。その感覚が上手く表現できなくて……仗助に殴られたのも、ずっと前のことなので薄れてしまって」 目の前で見たわけではないが、露伴は初対面の仗助と戦闘になった際にわざと髪型のことを貶して怒らせ、容赦なく殴り飛ばされた。しばらく漫画の連載を休まなくては ならないほどの重傷を負ったらしい。それすらも「良い経験」として漫画に生かそうとするのだから、やはりこの男は変わっている。 殴ってくれと言われて、素直に従えるほど愚かではない。人を痛めつけて楽しむ趣味はなく、これまで露伴と言い争いをして腹が立っていたわけでもないのに、急に気持ちを 切り替えるのは無理だ。 「僕が素晴らしい作品を描くのに必要な経験なんです。ああ、もちろん平手じゃなくてコレでお願いしますね」 そう言って露伴は、自分の手を承太郎の前で握り締めた。そしてソファを降りると数歩下がり、覚悟を決めたような表情でその場に立つ。 承太郎がやるとも言っていないうちから、もはやその気になっているようだ。 「……あんたの漫画は」 再び口を開いた承太郎の次の言葉を、露伴は無言で待っている。 「そうやって自分から痛い目に遭わねえと、描けねえものなのか」 「嘘の感情を頼りに描いた漫画なんて、薄っぺらくて面白くないですよ。怪我で手が使えなくなるのは困りますけどね」 重い気分を抱えてソファから立ち上がった承太郎を見上げる露伴の目は、期待に満ちていた。それはふたりきりの場所で、キスを待つ時の様子にも似ていて戸惑う。 キスならいくらでも、どこにでもしてやれるのに。そう思うのは自分だけで、露伴本人は殴られることを望んでいるのだ。 「僕のことが好きなら、殴ってください。こんなこと頼めるのは、あなたしか居ません」 その言い方は卑怯すぎる。何がなんでも殴らせるつもりだ。 震える息を吐きながら、承太郎は目を固く閉じる。本心では、こんなことはしたくない。妻や娘が居る立場でありながらも、夢中になってしまった相手を痛めつけるなんて 馬鹿げた行為だ。期待に満ちた露伴の視線を思い出すと、胸が締め付けられる。 「1度だけでいいですから、お願いします」 今まで聞いたことがないくらいの切実さがにじんだ声に、承太郎は目を開ける。手のひらを強く握り締めて前に1歩踏み出すと、全ての感情を抑え付けながら露伴の頬を 殴った。 短い声を上げて絨毯に尻をついた露伴の口の端から、血が流れ落ちる。まるでその感覚を胸に刻みつけるかのように、殴られた頬に触れて目を伏せた。 「承太郎さん、手加減したでしょう」 「今のが精一杯だ」 「でもあなたは、僕の頼みを聞いてくれた。この痛みは無駄にしません」 露伴の血を指で拭い取ると、その身体を抱き寄せる。髪や背中に触れながら、露伴が言っていた1度だけでいい、という言葉を信じた。 数日後に承太郎の部屋を訪れた露伴の頬からは、殴られてできた青い痣は消えていた。 指摘された通り、殴る時はかなり手加減をしたので歯が折れたりはしていないはずだ。 怒りが一切乗っていない拳でも、露伴は本当に満たされただろうか。 部屋に露伴を招き入れてドアを閉めると、痣があった頬に唇を押し当てる。 「僕のこと、心配してくれてたんですか」 「まあな」 「嬉しいですよ、あなたが僕のことを考えてくれているなんて」 露伴は表情を緩めて、承太郎の胸にしがみついてきた。すっかり馴染んだ温もりだが、今でも心臓が落ち着かなくなる。 関わり始めた頃は肩を抱いただけで文句を言われ、 あなたは自分の立場を分かっているんですか、と刺々しい態度を取られていたのに。それが懐かしく感じるくらい、こうしていることが当たり前になっていた。 「……承太郎さん」 名前を呼びながら顔を上げた露伴と目が合った。覚えのある、あの期待に満ちた目だ。 「今度は、僕の足を折ってください」 一瞬で、承太郎の身体から血の気が引いた。 「僕……今、すごく幸せです。痛いはずなのに、自分でも信じられないくらい心が満たされている。この痛みもあなたが僕にくれたものだから、忘れないように大切にします。 今度は手加減無しだったのも、嬉しい。あ、帰りはタクシーを呼ぶので大丈夫ですよ」 有り得ない方向に曲がった片足に愛しげに触れる露伴の姿も、言葉も。 空虚になった心のまま、承太郎は全ての現実から目を逸らして立ちつくしていた。 |