夜明けは薔薇の館で/後編



「由乃さん、あの時ちゃんとドア閉めた?」
「失礼ね、ちゃんと閉めたわよ」
「……本当に?」
「………」

1階のドアの前で祐巳がしつこく問い詰めると、由乃は観念したかのように口を閉ざした。
祐巳と由乃はテーブルの下に潜って様子を伺っていたものの、数分経っても部屋のドアが開く気配は無かった。 とりあえず電気は消したまま部屋を出て階下へ降りてみると、最後に薔薇の館へ入ってきた由乃が閉めたはずのドアが開いていて、 外からの風に煽られているらしく開いたり閉じたりを繰り返していたのだ。 その音はまるで、軋む階段のそれに似ていて……。

「なんだか、散々盛り上がった結末がこんなのなんて気が抜けちゃったわ」
「ち、ちょっと由乃さん、せっかく降りてきたんだからドア閉めて行こうよ!」

明らかにうんざりした様子で階段を上って行く由乃に、祐巳はそう言いながらドアを閉めに行った。


***


2階の部屋に戻った直後、どこからか聞き覚えの無い電子音が鳴り響いた。 よく聞けば、何かの時代劇のテーマソングにも似ているそれはあまりにも大きな音量だったので祐巳は慌てて辺りを見回した。 しかし由乃は冷静にポケットの中を探ると携帯電話を取り出す。
由乃が携帯電話を密かに持っている事は知っていたが、当然ながらシスター達の目が光る普段の学園内では出していないようだった。 その存在すらも口にしない。今なら側に居るのは祐巳だけなので、由乃を叱ったり文句を言ったりする者は誰も居ない。
電話の相手は誰だろうと思っていたが、 向こう側の声がよほど大きいのか、耳を澄まさなくてもその声はしっかりと祐巳の耳にも届いた。

『もしもし由乃!? 大丈夫? ご飯はちゃんと食べた?』
「ちょっと令ちゃん……今何時だと思ってるのよ」
『だって、由乃が無事でいるかどうか心配で、眠れなくて』

祐巳の腕時計は、夜の0時を過ぎていた。こんな遅い時間まで眠れなかったという事は、令はよほど由乃を心配していたようだ。

『薔薇の館に泊まりたいだなんて言い出したかと思えば、本当に泊まりに行っちゃうし』
「だから大丈夫だってば! ほら、祐巳さんも一緒だし」
『でも、鍵もついてない建物に女の子が2人だけで泊まるなんて。私はすごく反対したのに由乃がどうしてもって言って無理矢理……』
「もー! 令ちゃんったら何でいつもそんなに心配性なの!?」

約1時間程度、この電話は続いた。次第に激しくなる黄薔薇姉妹の口論(由乃が一方的に捻じ伏せている感じだが)に、 側で聞いている祐巳はただ苦笑いを浮かべるしかなかった。


***


祐巳が紅茶のカップを洗っている間、由乃は1階の物置部屋で何かを見つけてきたらしい。 部屋に入ってくるなり、得意気な顔で大きな白い布のようなものを広げてみせた。

「由乃さん、それ何?」
「予備のテーブルクロスよ」
「でもこの前替えたばかりじゃ……」
「何言ってるの、これは一夜を過ごすための重要なアイテムなのよ」

訳が分からないので更に理由を聞こうとしたが、由乃は「後で分かるから」と言うばかりでそれ以上は教えてくれなかった。 仕方が無いので祐巳は由乃と一緒に歯磨きと洗顔を済ませ、窓を塞いでいた立て看板を片付け、部屋の電気を消す。 寝る準備は整ったが、布団も枕も無いこの状況でどうやって寝れば良いのだろうか。
由乃は先程のテーブルクロスを半分に折りたたんでショールのように両肩に被せると、床に腰を下ろして壁に背を預けた。 今度は窓からの月明かりが薄い照明代わりになってくれているので、おぼろげながらも由乃の姿を目にとらえる事ができた。

「さっ、祐巳さんもこっちに来て」

テーブルクロスの片側をめくり上げ、由乃が祐巳を呼ぶ。未だに訳が分からないまま側へ行くと、 テーブルクロスを肩に被せられた。1枚の大きなテーブルクロスは祐巳と由乃の身体を丸ごと包み込んでも、まだ余裕があった。

「ただの薄布でも、無いよりはマシでしょ?」
「ま、まさか今日はこうやって寝るつもりじゃ……」
「そうよ。だって床に寝転がるわけにもいかないじゃない」
「それはそうだけど、でも」
「あー、やっぱり肌寒いかも。もうちょっと寄ってもいい?」

祐巳の言葉を遮るかのように由乃はそう言うと、細い肩をこちらへ寄せてきた。 祐巳と由乃の肩や腕がテーブルクロスの中で密着して、その部分だけが不思議な熱を持った。
テーブルの下で由乃と抱き合った時の事を思い出す。強く抱き締められた瞬間、 祐巳の中の小さな世界は間違いなく由乃で満たされた。 少し道を誤れば、友情という枠を簡単に飛び越えてしまうそうなほど危険な何かが、祐巳を揺り動かしたのだった。
そんな祐巳の気持ちも知らずに、由乃は祐巳の肩にもたれたまま寝息を立てていた。色々あって疲れていたのかもしれない。

「……祐巳さん」
「えっ?」

寝ていたと思っていた由乃が名前を呼んできたので、驚いた祐巳の声は少し裏返った。

「来年は……絶対一緒に、薔薇さまに、な……」

途切れ途切れに発せられた由乃の言葉は途中で切れて、終わってしまった。しかし何となく言いたい事は理解できた。何となくだが。

「うん、頑張ろうね」

由乃の頭をそっと撫でると、やがて祐巳も眠りに落ちていった。


***


「……ちゃん、祐巳ちゃん!」

強く身体を揺さぶられる感覚に、祐巳は目を覚ました。ここは確か薔薇の館で、昨夜から由乃と2人きりのはず。 しかし今、祐巳を呼ぶ声は由乃のものではなく、現在の学園内で自分を「祐巳ちゃん」と呼ぶ人物はひとりしか知らない。
うっすらと開けた目に映ったのは、由乃のお姉さまである黄薔薇さま・支倉令だった。

「もう7時半よ。早く身支度しないと8時には祥子が来ちゃう」

それを聞いた祐巳の頭が急速にはっきりとしてきて、身を起こした。 こんな姿でここに寝ているところを祥子に見られたらと思うと恐ろしくて、居ても立ってもいられない。 起こしにきてくれた令には、いくら感謝しても足りないくらいだった。

「やっぱり様子見に来て良かった。コンビニで適当なもの買ってきたから、2人で食べて」

令から渡された袋の中には、2人分の飲み物とパンが入っていた。

「わあ……ありがとうございます、令さま」
「なーんだ、令ちゃんの手作りじゃないの?」
「仕方ないでしょ、急いで出てきたんだから」
「ふーんだ。令ちゃんが早く電話終わらせてくれてたら、ちゃんと早起き出来てたのに」

洗顔用のタオルを片手に流しへ向かいながら、由乃はそう言って唇を尖らせる。

「よ、由乃さんったら……」

そんな言い方は無いだろうと祐巳は思ったが、令は苦笑しながら祐巳の肩に手を置いた。

「由乃の無茶には慣れてるから、いいのよ」

蛇口から流れる水の音にかき消されて、令の言葉は祐巳にしか聞こえていないようだった。


***


テーブルの向かい側では令が、パンを食べている由乃の髪をブラシで梳いて、慣れた手つきで長い髪を丁寧に編み込んでいる。

「由乃、痛くない?」
「うん、平気」

姉妹水入らずな光景を眺めながら、本当に仲が良いんだなと思った。この2人には、祐巳の知らないたくさんの思い出や絆があって、 他人が容易に入り込む隙は無い。まるで違う世界の出来事を見ているような気分だった。
そんな事を考えていると、令と祐巳の目が合った。

「さて、次は祐巳ちゃんの番ね」
「ええっ!?」
「あら、私じゃ不安?」
「いえ、そういうわけでは……でも」

由乃のおさげ髪を完成させた令が、祐巳のほうへ向かってくる。由乃が見ている前で、令が祐巳の髪を直すなんて。 いくら何でもまずいのではないか。しかし由乃の口から出たのは「やってもらえば?」という意外な言葉だった。

「令ちゃん器用だから、きれいにまとめてもらえるわよ」
「じゃあ、そういう事だから」

そう言いながら令は、問答無用で祐巳のリボンをほどいた。

「あのっ、私の髪ってすっごく扱いにくいんです。だから多分手こずってしまうかも」
「了解。任せておいて」

祐巳がいつもかける時間の半分も経たないうちに、令は見事にツインテールを完成させた。 さすが、としか言いようがない。一瞬だけ、本気で弟子入りしようかとも考えてしまった。
何となく顔を上げると、由乃は平然とした表情でコーヒー牛乳を飲んでいた。 令が祐巳の髪に触れているのを目の前にしても、特に何とも思っていないようだった。


***


「令さまが他の人の髪を直していても、平気なの?」

職員室へ顔を出しに行くという令を見送った後、祐巳は由乃にそう訊ねてみた。パンや飲み物の片付けをしながら。
令が部屋を出る前、祐巳は先程貰ったパンや飲み物の代金を渡そうとしたが「由乃のワガママに一晩中付き合ってくれたお礼だから、 お金はいらないよ」と言われた。その横では由乃が、ワガママと言われて不満げに頬を膨らませていたが。
2人が使った例のテーブルクロスは、被服室でこっそりアイロンをかけておく事にした。

「基本的には許さない。でも、祐巳さんだけは別」
「私はいいの?」
「だって祐巳さんなら、私から令ちゃんを取らないって信じられるもの」

確かに祐巳が心酔しているのは令ではなく、お姉さまである祥子のほうだ。 それはすでに周知の事実だし、由乃から令を取ろうだなんて考えた事は1度も無い。今までも、そしてこれからも。
片付けが済んだ後、2人は制服に着替えた。窓から射す朝日が眩しく、1日の始まりを実感させる。

「ところで由乃さん、なんだか首とか肩とか痛くない?」
「まあ、座ったまま寝てたんだから無理もないわね……午後の体育の時間までに治ってるといいけど」

きちんとタイを結んだところで、ビスケット扉が開いた。職員室から戻ったらしい令、そして祥子が入ってくる。

「祐巳、由乃ちゃん、ごきげんよう。2人とも早いのね」

祥子は、祐巳と由乃が薔薇の館で夜を明かした事は知らない。逆に全て知っている令は、うまく知らない振りをしてくれていた。 祐巳と由乃は声を揃えて、リリアン式の挨拶を返した。


「ごきげんよう、お姉さま方」





夜明けは薔薇の館で/完





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2005/1/20