7年後の君へ 掴み合いの喧嘩を始めた酔っ払い達のそばで腰を下ろし、目を輝かせながらスケッチブックを広げた唯をその場から離すには一苦労だった。 どういうつもりだったのかと聞いてみたところ、『映画やドラマとは違う、リアルな喧嘩にはめったにお目にかかれない』という、明らかに普通ではない答えが返ってきた。 「だって、いつでも描ける景色や建物なんてつまんないでしょ」 「巻き込まれる可能性は考えてなかったの?」 「そうなったら、その時に考える。今の私が求めているのは刺激的なモチーフだから」 何を言っても通じない。自分の身の安全より、描きたいものを描くほうが最優先らしい。 唯は常にスケッチブックを持ち歩いている。情熱が冷めないうちに絵を描けるように。 以前は素行が悪く、色々と良くない噂を流されて孤立していた奈子に、ある日突然絵のモデルをやってほしいと頼んできた。あれだけでもなかなかの度胸の持ち主だと思った。 「小学生の頃からかな、こうやってスケッチブックにいろんな絵を描いてるのって。もちろん今までのは全部捨てずにとってあるの」 「何冊、いや何十冊くらい?」 「気が向いた時は1日で1冊を埋めるから……うーん、もう数えるのが怖いくらい。しかもスケッチブックは、ずっと同じメーカーの同じ大きさのものを使ってる。これじゃなきゃダメって感じ」 そう言って唯は、大切な宝物のようにスケッチブックを胸に抱いた。 正確な冊数を把握できていないほど大量に存在しているらしい唯の情熱の証は、一体どんな色や線で表現されているのだろう。絵には詳しくないが、何となく気になる。 土曜夕方の街で、季節の流行に合わせて着飾る大勢の中にいても唯は持ち物のせいもあり目立っていた。 「このスケッチブックが最後まで埋まったら、奈子に見せるね。いや、見てほしい」 「……どうして私に」 口に出してから、今のは印象が悪かったかもしれないと気付いた。むしろ興味があるのに、迷惑していると思われただろうか。 必要以上に家族や親戚以外とは関わらない日々を送ってきたせいか、上手い接し方が分からない。特に姉の凛は、奈子がわざわざ口に出さなくても何かと理解してくれていたからだ。 しかし姉と同じ高校に行けずに離れた今、しばらく道を踏み外してしまった時期もあったが、姉の存在しない自分のもうひとつの世界を築き上げなくてはならない。 教師を目指している身としては、いつまでも人づきあいが悪いままでは駄目だ。 「なんかねー、奈子には私のことをたくさん知ってほしいんだ。気持ちを伝えられる手段って言葉だけじゃないし。あ、もしかしてこういうの重かった?」 驚いた奈子は気の利いた切り返しができずに戸惑ったが、やがて無言で首を横に振った。重いわけがない。むしろそんなふうに言ってくれる相手がいることが嬉しくて、泣きそうになってしまった。 今までスケッチブックを抱えていた片方の手で、唯は奈子の手を握った。色白でなめらかで、温度が低い。ここからあの大胆で力強い線が描かれていく。 この時だけはそれを独り占めしている気分になった。 あれから7年経ち、教師になるという夢は叶った。しかしあの頃の自分とは何もかもが違う。手に入れたものも、失ったものもそれぞれ大きすぎた。 高校卒業後、唯は描きたい景色があると言って外国に旅立った。奈子の元には近況を告げる葉書がたまに送られてきていたが、数ヶ月後に再会した唯は骨となり小さな箱の中にいた。滞在先で大きな事故に巻き込まれたのだ。 初対面の日に描いてもらった絵は今でも大切にしている。そして唯の欠片とも言うべきスケッチブックも。未だに見ていない膨大な量の中の1冊。そこにはやはり、見る者を圧倒する力で描かれた様々な絵で最後のページまで埋めつくされていた。鉛筆だけで描かれた白黒の絵の中には何をテーマにしたのか分からない、抽象的なものも多数ある。 きっとそれらは、唯の内側に渦巻いていた感情をそのまま描いたのかもしれない。大勢の人間に理解してもらう必要はない、自分の信じた道を歩き続ける。スケッチブックの絵を眺めていると、そんな唯の声が聞こえてきそうだった。 |