依存症





「あなたの絵が描きたいの」

顔を上げて、しっかりとこちらを見ているおさげ髪の女子生徒は真剣な顔をしていた。逃がさないと言わんばかりに。
登校して1年A組の教室に入ろうとすると、背後から呼び止められたのだ。加藤奈子さん、と聞き覚えのない声で。
名前も知らない、今まで話したこともない。色白で華奢で、一見大人しそうな印象だった。
制服の胸元で結ばれているスカーフの色は赤なので、同学年だ。
クラスメートの大半から近寄りがたい、話しかけにくいと思われているらしい奈子が相手でも、全く遠慮した様子を見せない。多分そこが気に入ったのだと思う。

「じゃあ、描けば」

誰が相手でも同じ、素っ気ない口調で答えると女子生徒は安心したように表情を緩めた。


***


その日に交わした約束した通り、放課後に訪れた屋上は静かだった。迷わずここを指定してきたあの女子生徒の判断は間違っていなかったようだ。
どうやら自分が先にたどり着いたらしく、特に時間を潰す手段も持ち合わせていなかったのでフェンスにもたれかかる。こういう時は少し前なら煙草を吸っていたのだが、 今は止めた。1、2本とはいえ毎日吸っていた状態で止められるのかと不安だったが、買い置きの煙草やライターを捨てて吸わないようにしていると、意外にもあっさりと 身体が欲しがらなくなった。自分は結構、意志が固いほうかもしれない。
屋上のドアが開き、あの女子生徒が現れた。奈子の姿を見つけると駆け寄ってくる。

「ごめんなさい、日誌書いてたら遅くなっちゃって」
「今来たところだし、そんなに待ってない」
「でも、まさか引き受けてくれるとは思ってなかった。すごく嬉しい」

胸に抱えた大きなスケッチブックには、遠野唯と書かれていた。朝に自己紹介された時に聞いていた名前だが、やはり覚えがない。今まで真面目に登校していなかった せいもあるが、他人に無関心だったのが最も大きな原因だろう。
積極的に友達を作ろうとは思っていなかった。どうせ年月が経てば疎遠になるのだから。

「加藤さんって背、高いよね。何センチあるの?」
「172」
「わあ、やっぱり! 羨ましいなあ。私は160ちょっと前で止まってるから」

唯は奈子の前に腰を下ろすと、スケッチブックを広げて筆箱から鉛筆を取り出した。

「全身描きたいから、そのままフェンスに背中付けて立ってて。疲れたら言ってね」
「どのくらいかかるの」
「そんなに時間は取らせないつもり。長く拘束するのも悪いし」

そう言うと唯は、笑顔を消して鉛筆を走らせた。この場所からでは絵は見えないが、かなり早いスピードで鉛筆が動いている。時々こちらを見上げる目は、鋭い。
こんなに奈子に興味を示した相手は、この学校では唯くらいだ。2歳上の姉は違う高校に通っていて、かなり歳の離れている兄のほうはとっくに社会に出ていた。
煙草を止めて、とりあえず毎日登校するようになったのは、兄の友人がきっかけだった。 何故か奈子を更生させたがっていて、家出をした時は家族と一緒に奈子を探していた。後から聞いた話では、自分と同じ道を歩ませたくなかったらしい。今は社会人として普通に 働いているが、高校時代に何度も補導されて以来、同じ刑事に延々と目を付けられているのだと。まるでストーカーのように。
昔の自分と今の奈子を重ねて見ていたのか。それにしてもお人好しすぎる。家族の誰よりも早く夜の街で奈子を発見し、逆上した奈子の平手を避ける様子もなく受け止めると、 熱心に家に戻るように説得し続けた。後から駆け付けて近くでそれを見ていた兄や姉は、その展開に呆然としていた。
それからは金色に近かった髪を黒に戻し、驚く周囲をよそにこの胸にひとつの目標が生まれた。今度は自分が、道に迷ってしまった誰かの力になりたいと。教育大学を受験する ために資料を集め、勉強を始めた。これまでの素行の件もあるので受かるかどうかは分からないが、目標ができると道が開けた気がした。それだけでも進歩したと思える。

「……できたよ、加藤さん」

その声で我に返る。考え事をしていたせいか、予想よりも早く感じた。唯に近付いてスケッチブックを見せてもらうと、そこに描かれていた絵に息を飲んだ。
鉛筆1本で描かれたその絵は、唯の見た目のイメージからは想像できないほど力強い線で、フェンスにもたれる奈子をリアルに表現していた。長い黒髪が、風に揺れる様子までも。

「どう?」
「こんなにすごい絵、見たことない」
「それは言いすぎ。嬉しいけどね」

奈子からスケッチブックを受け取った唯は、奈子の絵を描いたページを丁寧に切り離すとこちらに差し出してきた。

「今日の記念に、それ加藤さんにあげる。私は満足したから」
「いいの?」
「初めて見かけた時から、ずっと描きたいって思ってたの。だからお礼」

いつから思われていたのかは分からないが、煙草を吸っていた頃からだろうか。学校へは気まぐれにしか来てなかったのに。


***


部屋で机に教科書とノートを広げたまま、唯から貰った絵を改めて眺めていると両肩に突然重みが乗った。

「その絵どうしたの!? 上手いじゃない!」

背後から現れた声の主は奈子の肩を掴みながら、更に身を乗り出してきた。
部屋に入ってきた時に気配を全く感じなかったが、驚かせようとしてこっそり近づいてきたのかもしれない。そういうところは昔からなので慣れているが。

「姉さん……いきなり部屋に入ってこないで」
「だって居るはずなのに、ノックしても返事ないんだもん」

奈子の姉である凛とは、性格が全く違う。自分はどちらかと言えば、無口な兄のほうに近い気がする。姉ともし同じ学校に通っていれば、学年の違い など無視で毎日教室に突撃されて絡まれるに違いない。今のような調子で。
もしそういう学校生活なら、逆に道を踏み外す暇もなく高校生らしい毎日を送ることができただろうか。中学を卒業した後に姉と完全に学校が離れてしまった途端、急に何もかもが どうでも良くなった。
家に帰れば毎日顔を合わせるはずの姉に、そこまで依存していた自分は異常だ。

「ねえねえ、それ誰が描いたの?」
「学校の、友達」

今日知り合ったばかりでまだそういう関係ではないが、説明すると長くなるので嘘をついた。

「あんたから友達の話聞くのって、すごい久し振り! 今度家に連れてきてよ!」
「まあ、そのうち」

スケッチブックを抱えた唯の姿が頭に浮かんだ。嫌な性格ではなさそうなので、高校に入って初めての友達になれる可能性はある。
淡い期待をしながら、奈子は絵をクリアファイルに入れて引き出しにしまった。




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2011/6/19