触らせない! 「あれっ、ゆららちゃん!」 日曜日、真雪さんと一緒に喫茶店で話をしているとどこからか私を呼ぶ声がした。何度か辺りを見回すと、いつの間にかすぐそばにショートカットの女性が居た。 Tシャツにジーンズというラフな服装でも、そのスタイルの良さが分かる。 「凛さん!」 「こんなところで会うなんて、すごい偶然〜! 久し振り!」 「旦那さんはどうしたんですか?」 「ああ、昨日の夕方から友達と飲みに行ってる。泊まってくるって言ってたな」 そんな私達の会話を、向かいの席の真雪さんが無言でじっと見ていた。私はそれに気付いて、慌てて凛さんに真雪さんを紹介する。 「河合真雪さん、小説家なんです」 「ええっ、あの河合真雪!? 『目眩の螺旋』の!」 具体的な作品名を出しながら、凛さんは目を輝かせて大はしゃぎする。真雪さんの小説を1冊も読んでいない私は、タイトルを聞いてもどんな話なのか全然分からない。 私が知っているのは、純愛ものから不倫ものまで色々な恋愛小説を書いているらしい、という大まかな情報だけだ。別に興味がないわけじゃなくて、活字が苦手なので読めない。 凛さんは真雪さんに顔を近付けて、その細い肩に手を回して抱き寄せた。そして心底楽しそうに目を細めると、桃色のグロスで濡れた唇を開く。 「なあ……スケベしようや……」 唐突に、しかも謎の関西弁で衝撃発言を囁かれた真雪さんは、飲んでいたアイスティーをグラスの中に思い切り吹き出した。聞こえてしまった私も凍りついた。 「絶対気持ちええから、なあ……」 「ち、ちょっと凛さん! 何やってるんですか!」 「何って、挨拶代わりに。面白いかと思って」 だって私好みの美人なんだもん、と言いながら凛さんは真雪さんの肩を抱き寄せたまま離さない。ああ、そういえば昔からこういう人だった。真雪さんみたいなプライドの 高そうな感じのタイプは大好物、いや、お気に入りなのだ。徹底的にいじりたくなるらしい。 「ゆらら……この人は何なの」 今も衝撃から立ち直っていないらしい真雪さんは、顔を引きつらせながら私に問いかけてくる。凛さんの手を振り払う余裕もないらしい。 「紹介遅れてすみません、櫻井凛さんです。この前会った奈子さんのお姉さん」 奈子さんの名前を出すと、真雪さんの表情が険しいものになった。もしかして奈子さんのことはあまり好きじゃないのだろうか。しかしその表情は、凛さんが強引に 真雪さんの隣に座り始めた途端に崩れた。 あの、いつもやりたい放題な真雪さんがここまで追い詰められているのは初めて見た。あまりにも新鮮すぎて、感動すら覚えてしまう。 「ねえねえっ、真雪センセイってデビューしてから、短大通いながら小説書いてたんでしょ? ちゃんと両立できるのってすっごいよね!」 「どちらかが中途半端になるのは、絶対嫌だったので……」 「センセイの話って甘くてロマンチックで、あまり堅苦しくないところが好きなの! ……あ、今気付いたけど可愛いピアスしてるね。この形、雪の結晶?」 凛さんがそう言って、真雪さんのピアスに触れようとした時だった。それまで普段とは別人のように大人しくなっていた真雪さんの目つきが急に鋭くなった。私は思わず息を飲んだ。 真雪さんが身を引くと、耳から下がっている短い鎖の先についた雪の結晶が揺れた。 「このピアスには、触らないでください」 さすがの凛さんも、その様子にただならぬものを感じたのか動きを止めた。ごめんね、と言いながら手を引っ込める。 久し振りに見た、この張り詰めた空気。休日の賑やかな店内で、まるで私達の席だけが別の世界に存在しているかのように。 「真雪さん!」 これから買い物に行くという凛さんと別れ、喫茶店を出た後でひとりで歩いて行く真雪さんに私はようやく追いついた。私が隣に並ぶと、真雪さんは立ち止まる。 「ピアスくらいで、あんなに怖い顔しなくても」 「あんた、もしかして怒ってるの?」 「別に怒ってませんよ。ただ、どうしてかなって」 「理解してもらおうなんて、思ってないから」 私は真雪さんの耳に手を伸ばして、銀色に輝く小さな雪の結晶に触れた。真雪さんは一切拒まない、何も言わずに正面の私を見上げている。町のざわめきが遠い。 このピアスは私が、真雪さんのために選んで贈ったものだった。 |