想像できない! 『奈子さんの連絡先ですか?』 電話の向こうのゆららは、少し驚きの混じった声で聞き返してきた。 メモ帳とペンをすでに手元に用意してあるので、いつでも準備万端だ。 「ちょっと用があってね、あんたなら分かるでしょ」 『うーん、でも勝手に教えちゃってもいいのかな』 「じゃあ向こうに私の携帯の番号とメルアド教えて、嫌じゃなかったらそこに連絡してもらうように伝えて」 ゆららから貰ったピアスを町で失くして焦っていた時、すでに拾って手渡してくれたのは奈子だった。それまでは憎らしい存在だったはずが、今ではいくら感謝しても足りない。 しかし、親しくなりたいのかといえばそうではない。とにかくあの時のお礼がしたい、それだけだ。何を考えているのかよく分からない、裏のありそうな雰囲気は苦手だ。ゆららの血縁とは思えない。 『でも私、安心しました。真雪さんって、奈子さんのことあまり好きじゃないのかなって思ってたから。私はふたりとも大好きなので、仲良くしてもらえたら嬉しいです』 真雪は複雑な気分になった。どうしても奈子と仲良くしている自分が想像できず、ゆららの期待には応えられそうにない。 それにゆららの中で、真雪は奈子と比べてどの辺りに位置付けられて いるのだろう。ふたりとも大好きなので、という言葉が妙に引っかかっている。幼い頃からずっと憧れている親戚のお姉さんと、数か月前に出会ったばかりの他人なんて、 それぞれに対する思い入れの深さは比べるまでもない。 ゆららとの通話を切って十数分後、携帯に登録していない番号から電話がかかってきた。 テーブルのそばにスーツ姿の女が現れると、真雪はブックカバーを付けている文庫本を閉じた。谷崎潤一郎の『痴人の愛』。高校時代から何度も読んでいる愛読書だ。 「遅れてごめんなさいね、待った?」 「いえ、大丈夫です。呼び出してしまってすみません」 真雪の向かいの席にバッグを置いた奈子は、椅子に腰掛けた。待ち合わせは奈子の仕事が終わってからということになったので、今は夜の7時半を少し過ぎたところだ。 確かこの喫茶店は9時くらいまで開いているはずなので、まだ時間には余裕がある。真雪は椅子に置いていた手提げ付きの紙袋を奈子に差し出した。中身はここに来る途中 で洋菓子店で買った、チョコレート菓子の詰め合わせセットだ。 「この前はピアスの件で、お礼を言いそびれてしまったので」 「あのことでわざわざ? 偶然見つけただけなんだけど」 「もし加藤さんが見つけてくれなかったら私、夜になっても探し続けていたかもしれません。本当にありがとうございました」 苦手な相手でも、それなりにけじめはつけておきたい。そう思いながら紙袋を更に前へ押し出すと、ため息をついた奈子がそれを受け取った。 これで当初の目的は果たしたが、仕事帰りに呼び出しておいてすぐにさよならでは微妙すぎる。ちょうど良い機会なので、前から気になっていたことを聞いてみた。 「加藤さんって、どうして先生になろうと思ったんですか」 テレビや雑誌、その他様々なメディアが今時の教師の苦労を取り上げている。ここ数年では、保護者からの理不尽な要求やクレームなどが原因で心身共に病んでしまう教師の 話をよく耳にしていた。特に奈子は小学校の教師なので、特定の科目だけではなく体育や音楽などの授業もひとりで教えなければいけない。 改めて、自分には絶対に向いていない職業だと真雪は思った。奈子とは性格も何もかも、対極の位置に居る。 「高校の頃の私は、制服を着たまま外で煙草を吸うような問題児だったの」 それを聞いて、真雪は一瞬自分の耳を疑った。スーツを着こなし、落ち着いた雰囲気を漂わせている今の奈子からは想像できない話だ。その表情は真剣で、冗談を言っている ようには見えない。 「学校にもまともに行ってなくて、何もかもどうでもいいって投げやりになっていた。そんな私を救ってくれたのが、兄の友人」 「お兄さんも居るんですか?」 奈子には凛という姉が居るのは知っていたが、兄の存在は初めて聞いた。 「家出した私を家族と一緒に探してくれたり、真面目に叱ってくれた。どうしてそこまでしてくれるのか分からなくて戸惑っていたけど、その人の優しさに触れているうちに、 自分を取り戻せたような気がしたの。今度は私が、道に迷ってしまった誰かの力になりたいって思った。これがあなたの質問の答え」 高校時代の奈子を、それほどの大きな力で変えたのは一体どういう人物なのだろう。男か女かも語られなかったが、人生経験が豊富で包容力のある人間に違いない。 「加藤さんの過去、ゆららは知ってるんですか」 「それほど頻繁に会っていたわけじゃなかったし、多分知らない。昔の私をあの子がどう思うかは分からないけど、驚くでしょうね」 淡々と言うと奈子は運ばれてきて以来、そのままの場所に置かれていた紅茶のカップを持ち上げて口を付ける。 「でもこうして、昔のことを真雪さんに話せて良かったかもしれない」 「……え?」 「私ばかり、あなたの秘密を握っているのはフェアじゃないし」 「秘密、って」 「そのピアスって、ゆららから貰ったものなんでしょ? ああ、安心して。落としたことは本人には言ってないから」 唇の端を少し上げ、目を細める奈子を見て真雪は息を飲んだ。 奈子は、ゆららが築き上げているはずの憧れの従姉像を揺るがすような過去話を、どういうつもりなのか真雪に握らせて楽しんでいる。 そもそも真雪が、奈子に教師になった理由を聞いたのが全ての原因だが。 「そろそろ帰らなきゃ。お菓子、ありがとう」 腕時計を見るなり、奈子は立ち上がるとバッグと紙袋を手に取る。そして自分が頼んだ紅茶の代金をテーブルに置いて去って行った。 いつでも奈子は余裕の態度を崩さない。もしゆららが奈子の過去話を聞いたとしても、それを理由に幻滅するとは思えなかった。長い付き合いでゆららのことは大体把握しているらしいので、 嫌われない自信があるのかもしれない。 やはり奈子は苦手だ。できればもう、あまり関わりたくなかった。 |