忘れたくない! 「真雪さんってさっきからずっと、中森明菜ばかり歌ってますよね」 曲を歌い終えてテーブルにマイクを置いた真雪に、ゆららは何気なくそう言った。よほどお気に入りなのか、すでに5曲連続で真雪は延々と同じ歌手の曲を歌っている。 「他に歌えるのって、後は工藤静香か中島みゆきくらいだけど」 「次は私が入れたAKBの曲だから、一緒に歌いましょうよ」 「高い声の曲は苦しいから歌えないって言ったでしょ」 「えっ、そんなに高いですか?」 そんな会話をしながら、久し振りに真雪と一緒に来たカラオケボックスで盛り上がっていた。 真雪は決して素晴らしく歌が上手いというわけではないが、低く抑えた調子で歌う時の声や表情は、どきっとするほど色っぽい。同じ女なのに、こういう気持ちになるのは おかしいと分かっていながらも。 数日前、真雪とふたりで外を歩いていると見知らぬ女達に囲まれたことを思い出す。最初は真雪のファンかと思っていたが、思い出したくないほど下品な言葉で真雪を貶し始めた。 普段はめったに逆上しないゆららの怒りは頂点に達し、人目も気にせず真雪の代わりに強い口調で反撃した。更に周囲の注目を集めて気まずそうな顔をした女達が去った後、ゆららの腕に しがみついた真雪は震えながら涙を流した。その時の真雪は下を向いていたので見逃してしまいそうになったが、あの涙は今でもしっかりとゆららの目に焼き付いている。 いつもは気が強くて、やりたい放題な真雪が初めて見せた泣き顔。やはり自分の小説をネタに罵られたのが悔しかったのか。プライドの高い真雪なら有り得る。 家に帰らなくてはいけない時間だったが、真雪が落ち着くまで腕を貸していた。 できる限り、そばに居てあげたいと思ったのだ。 「ゆらら」 「えっ?」 「あんたが入れた曲、もう始まってる」 我に返って顔を上げると、いつの間にかゆららが入れた曲の前奏が終わって画面に歌詞が現れていた。歌い慣れているはずの曲なのに、すっかりペースが乱れてリズムに乗れ ていない。最初でつまずいてしまうと、調子を取り戻すのに時間がかかる。可愛い下着を身に着けた少女達がじゃれあう映像と共に現れる歌詞を、必死で追っていく。 やがてまともに歌えるようになった頃、画面を見ている真雪の横顔を密かに眺めた。あれから真雪は、あの日のことを口に出していない。年下の高校生に泣き顔を見られて、 屈辱だと思っているかもしれない。 ゆららが歌い終わった後、画面は一瞬だけ暗転して今月の新譜情報を流し始めた。 「あれっ、次の曲入ってないですよ」 「……あんたに、言っておきたいことがあるの」 そう言ってこちらを向いた真雪は、思い詰めたような表情をしていた。 「この前、変な連中が絡んできた時の……っていうか、その後。ちょっと気が緩んで私、情けないところ見せちゃった。あんたには迷惑かけたって思ってる」 「迷惑なんて、そんなこと全然」 「こんなの都合良すぎるって分かってるけど。でもお願い、あの時のことは忘れてほしい」 目を伏せた真雪の細い腕を視線でたどっていくと、ソファの上で握り締めている手は微かに震えていた。見ているこちらまで、苦しくなるほどに。 そんな痛々しい姿を見つめながら、ゆららは口を開いた。 「嫌です」 真雪の表情が凍りついた。信じられない、と言いたげな様子でゆららを見ている。 「私は忘れたくないんです。少しの時間でも、その場の勢いだったとしても、私を頼ってくれたのが嬉しかったから。いくらお願いされても、なかったことにはできません」 「ゆらら、あんた……」 「たまには、私のわがままも聞いてくれたっていいじゃないですか」 ふたりだけの部屋の中、新人歌手のインタビュー映像やプロモーションビデオを流し続ける画面の音声だけが聞こえてくる。ゆららも真雪も何も言わないまま、時間だけが 過ぎていく。 正直な気持ちを告げたことは、後悔していない。忘れてほしいと言われて素直に納得できるほど、自分にとっての真雪は軽い存在ではないのだから。 |