「司令官、待ってください! しれいかーん!」
 鎮守府の廊下で、自分の声とふたり分の足音だけが響いている。
 いくら声をかけても決してこちらを振り向かない青年の背中を、吹雪は必死で追う。何とか話を聞いてもらって、もし気に障ってしまったことがあれば謝りたい。
 しかし願いは通じず、更に歩調を早めた青年に追いつけないまま見失ってしまった。
「もう……司令官ってば、どうしてあんなに怒ってるんだろう」
「きっと吹雪ちゃんが他の男の人と仲良くしてるのを見て、妬いたんじゃないかしら」
 ため息混じりの吹雪の呟きに応えるかのように、いつの間にか後ろに立っていた如月がそう言った。
「え、別に私はそんなつもりじゃ……」
「司令官たら、ああ見えて子供みたいなところあるのね。ふふっ、困った人」
 すっかり参っている吹雪を前にして、如月は愉快そうに目を細めて笑う。今更ながら如月が何故そこまで事情を把握しているのか気になったが、今の吹雪にそれを訊ねる心の余裕はなかった。



 全ては、ひとりの男が鎮守府を訪ねてきたことから始まった。
 海軍の白い軍服を着た、山岸と名乗る背の高い男。この鎮守府で艦隊の指揮を執る青年・小林の友人で、昔からかなりの人見知りである青年が、司令官として上手くやれているのか様子を見に来たらしい。しかも抜き打ちで。
 この鎮守府の話はすでに青年本人から色々聞いているらしく、秘書艦を務めている吹雪のことも知っていた。吹雪が自己紹介をすると、穏やかで真面目そうな雰囲気の山岸は微笑みながら『なるほど、君はあいつから聞いていた通りの子だね』と、やけに気になる発言をした。彼は吹雪について、一体どんな説明を受けているのだろう。
 そんな山岸を執務室に案内しようとして、世間話がほんの少しだけ長引いたのがいけなかった。離れた場所から吹雪と山岸の様子を見ていた青年の存在に気づいた時にはもう遅く、壁に背を預けながら腕組みをしてこちらを見ている青年は明らかに不機嫌な顔をしていた。
『あのっ、今ちょうど山岸さんを司令官のところにお連れしようと……』
 ズボンのポケットに両手を入れながら歩いてくる青年に吹雪は動揺しながら声をかけたが、青年はそんな吹雪のそばを素っ気なく通り過ぎ、山岸に向けて軽く片手を上げる。
 吹雪は気まずくなって一旦その場を離れたが、やがて山岸を見送った後の青年と廊下で再び顔を合わせてしまった。その結果、見事に避けられこうなったのだ。
 如月には、青年は吹雪と山岸が親しげに見えて嫉妬したのではないかと言われた。が、多分それは間違いだ。山岸とは先ほど初めて会ったばかりで、彼のことはほとんど知らない。それにかなりの女性不信らしい青年が、吹雪に特別な感情を持っているとは思えない。



 青年を鎮守府の裏手で見かけたという情報を頼りに向かうと、青年はやはりそこで煙草を吸っていた。更に彼のそばには鈴谷がいて、何かの話で盛り上がっている。今はとても吹雪が割って入れる状況ではなかった。
 とりあえず申し訳ないと思いながらも、建物の陰から様子を見て青年がひとりになるのを待つことにした。このまま鈴谷と一緒にどこかへ行ってしまう可能性もあるが。
「提督ぅー、その体勢パンツ見えてんだけど。外でしゃがんで煙草吸うとか、コンビニ前のヤンキーかっての」
「何勝手に見てんだよ、見物料よこせや」
「じゃあ見物料代わりに、鈴谷のパンツも見ていいよ。ブラとお揃いの、ちょいエロいやつ! 見たいでしょ! ねっ?」
「俺が気になってる車のパーツ、8万もするんだよな。あー、マジ金欲しい」
「ちょっと提督、鈴谷の話聞いてないよね? サイテー」
 声を上げて笑う青年と拗ねる鈴谷を見て、吹雪はここに留まったことを後悔した。 隼鷹とはふたりで朝まで酒を飲み、鈴谷に下着を見られても平気な顔で笑っている。とても女性不信には見えない振る舞いに、吹雪は戸惑うばかりだ。立場的に本心を隠しているだけかもしれないが、少なくとも他の艦娘達の前では不機嫌な顔を見せたり、声をかけられて無視をすることはない。
 女性中心の組織では、些細な噂でもあっという間に広まる。そんな中でも青年に関する悪い評価は今まで1度も聞いていない。せいぜい、『見た目のチャラさを眼鏡でごまかしたチャラメガネ』と一部の艦娘の間で言われているだけだ。
 そして立ち上がった鈴谷は、これから熊野との約束があると言って去って行った。残された青年は短くなった煙草を携帯灰皿に入れると、新たにもう1本を吸い始めた。今だ、今しかない。自身を奮い立たせ、吹雪は青年の背後から歩み寄る。
 鈴谷から指摘されたにも関わらず、しゃがんで煙草を吸っている青年の腰のあたりからは黒い下着が見えていた。もう近くに誰もいないと思って油断しているのか。しかし今はそれよりもっと重要な話がある。パンツのことは言わない、パンツのことは言わない……と吹雪は何度も心の中で繰り返す。吹雪にまで言われればしつこいと思われて、余計に機嫌を損ねるかもしれないからだ。
 青年の背中までかなり近い距離まで寄った途端に、あえて見ないようにしていた青年の下着が再び視界に入ってしまった。しかも上から見下ろしているせいで、尻の割れ目までちらりと見えてしまい言葉を失った。
「しっ、司令官! パンツです、パンツ!!」
 混乱した吹雪が叫んだ直後、よほど驚いたらしい青年は煙草を口から離して激しく咳き込んだ。 そして慌てた様子で立ち上がり、ズボンの腰部分を勢い良く引き上げる。
「ち、違う……私が言いたいのは司令官のパンツが見えていることじゃなくてですね、その、先ほどの山岸さんとは本当に特別なことは何もないと言いたくて、その」
「あってたまるか」
ようやく落ち着いた青年は、ため息をつくと低い声でそう呟いた。
 吹雪は再び腰を下ろした青年の隣に座り様子を見たが、今回は避けられたり逃げられたりしないようなので安心した。
「山岸はさ……あいつは、いい奴だろ。話しやすいし、優しいし……吹雪もさっき、楽しそうだったもんな」
「えっと、確かに山岸さんはお話しやすい雰囲気で、感じのいい方でしたけど、でも」
「吹雪は、あいつみたいな男のほうがいいよな。俺はあんたに嫌な思いをさせてばかりだ」
 青年は俯いたまま、鈴谷と一緒の時とは別人のように暗い口調で言った。日によって態度が微妙に違う彼には振り回されてばかりで戸惑うこともあるが、嫌だと思ったことは1度もない。
 如月が言っていたとおり、青年は吹雪が初対面の山岸と長く話をしているのを見て嫉妬したのだろうか。
「司令官が何を言いたいのか分かりませんが、私は司令官が1番最初に私を選んでくださって、そして一緒にいられることがすごく……幸せ、です」
 まるで精いっぱいの愛の告白のようで、吹雪は言ってから急に恥ずかしくなった。酷い目に遭った過去のせいで女性が信じられないと言っていた青年が、吹雪にはこうして弱気な部分を見せてくれるのが嬉しい。心の片隅では、彼にとって自分は特別なんだと自惚れてしまうくらいに。
 ようやく顔を上げた青年が、じっとこちらを見つめてくる。眼鏡の奥の瞳が、吹雪を捕らえて離さない。
 彼はまるで猫のようだと思った。警戒心が強くて、相手の本心を見透かそうとする。
「俺も……吹雪は正直で分かりやすいし、安心できるし、それに……」
 青年はそう言いながら途中で両膝の間に顔を埋め、声も小さくなり最後まで聞き取ることができなかった。



 翌朝訪れた執務室で、吹雪は思わず「えっ!?」と声を上げてしまった。
 その日の気分によって私服で鎮守府に現れることも多い青年が、今日は海軍の軍服で吹雪を迎えたのだ。
「そんなに驚くなよ」
「すみません、珍しかったのでつい……」
「まあ無理もないか、いつもはこんな軍帽なんて暑苦しくて被らねえし」
 軍人らしかぬ発言をした青年に呼ばれ、執務室の大きな机の前で青年と向き合って立つ。そして手渡された小さな箱には、銀色の指輪が入っていた。
 艦娘として司令官から渡される指輪は、あくまで練度の上限を解放するアイテムだ。しかし今の吹雪の練度は93で、上限にはまだ達していない。それを青年が知らないはずがない。忘れられているとすればあまりにも悲しい。
「あの、司令官……私、まだ」
「いや、練度のあれにはまだ早いって分かってるんだ。その指輪は俺が店で買ってきた、普通の指輪だよ」
 青年はズボンのポケットに手を入れて身体を揺すり、落ち着かない様子だ。普段は冷静な彼が、今まで何度か吹雪に見せてきたその仕草。見るたびに愛しくなる。
「前にも言ったけど、俺は女なんて男を平気で騙す嘘つきばかりだと思ってた。深く関わってもろくな目に遭わない……そんな俺の考えを、吹雪が変えてくれた」
「私が……?」
「あんたのことが好きなんだ。もし俺の気持ちを受け入れてくれるなら、その指輪を貰ってほしい」
 聞いているこちらの胸が苦しくなるくらいに、青年の声は震えていた。指輪の箱を持った吹雪の反応を見ながら、緊張しているのが分かる。
 好きだと言われてからずっと、身体中が熱い。頭からつま先まで全てが青年への気持ちで満たされて、止まらない。
「わ、私も……あなたが、司令官のことが大好き、です」



 吹雪が青年から指輪を受け取った件は、数時間もしないうちに鎮守府中に広まった。
 あれから、吹雪の気持ちを聞いた青年は泣きそうな顔で指輪を左手の薬指にはめてくれた。白い手袋に包まれた大きな手の感覚は、今でも覚えている。まるでふたりきりの結婚式で、花嫁になったような気がした。
 青年が司令官の立場ではなく、ひとりの男として告白と共に指輪を贈った。行く先々で艦娘達から冷やかされたり祝福されたりと、嬉しいような恥ずかしいような複雑な心境で1日を過ごした。吹雪と別行動をしている間、青年も同じ状況だったらしい。
 そんな中で、練度が上限に達した後はもうひとつ指輪が増えるのでは、という鋭い突っ込みが初雪から入った。
 しかし練度が99になるのはまだまだ先のことだ。今はこの指輪の余韻に浸っていたい。


end.




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2017/7/22