叢雲と別れた後、吹雪は動揺と混乱が収まらないまま鎮守府に帰ってきた。
 着任してからずっと秘書艦として近くにいた子猫が、1年前までこの鎮守府の司令官を務めていた小林という青年だった。しかし当時の秘書艦だった艦娘が戦いの中で沈んだショックで自ら命を絶った。そしてその秘書艦が、当時の記憶を失っている自分……。
 とても信じられない話だが、薬指に刻まれた指輪の跡が全て事実であると語っている。前の司令官だったらしい青年が、吹雪に贈った指輪。今の自分は、贈られた時の状況も気持ちも思い出せない。おそらく一生忘れずにいたいほど大切な出来事だったはずなのに。
 記憶を失っていたのは、子猫だけではなかった。
 階段を上り、執務室にたどり着くと目の前で突然ドアが開いた。出てきたのは海軍の白い軍服を着た、山岸という名の背の高い男だ。以前から子猫の記憶を取り戻すために情報を集めたり、様々な面でのサポートを行っている。そして軍人どころか人間ですらない子猫がこの鎮守府に着任するために、色々と手を回したのも山岸らしい。
 何故山岸が子猫に力を貸しているのかというと、子猫が人間の男……つまり生前の小林とは長い付き合いの友人だからだ。先ほどの叢雲との話で、ようやくここまで結び付いた。今まで子猫から山岸との関係については、あまり深く聞かされていなかったのだ。子猫の協力者、ということ以外は。
 山岸は吹雪に気づくと、軍帽を脱いで丁寧に頭を下げた。
「叢雲とは会えたのかな?」
「はい、今までずっと知らなかった色々なお話を聞いて……叢雲さん、今は山岸さんの鎮守府にいるそうですね」
「そう、行き場を無くしていた彼女を放っておけなかった……こばが自殺した後、遺体を1番最初に発見したのは叢雲だった。他の艦娘達が艤装を下ろしてそれぞれ違う道を行く中で、叢雲は戦い続ける道を選んだ。皆と同じように深く傷ついたのは確かだけど、こばの元で艦娘として過ごした時間を忘れたくなかったんだと思う」
 山岸はゆっくりとそう語った。こば、というのは青年の愛称だったのだろう。
「そういえば山岸さんは、どうして今の姿の司令官が小林さんだって分かったんですか?」
「……人間の頃も今も、女性の好みが変わっていなかったから、かな」
 吹雪の質問に山岸は数秒考えるような仕草を見せた後、微笑んでそう答える。本当のことを隠しているように見えなくもなかったが、少なくとも山岸はそれ以外の説明をする気はなさそうだった。



「吹雪ちゃん、どうしたんだにゃ?」
 執務室に入り、閉めたドアの前に立ったまま動かない吹雪に、子猫は机の上から飛び降りてこちらに駆け寄ってきた。
「司令官、わたし……私も、自分では気づかなかったけど、ずっと記憶を失っていたんです。この鎮守府で1年前まで、人間の男性だった司令官と過ごしてきた日々を、大切なことを忘れて……」
 昔のことを叢雲から教えられたものの、未だに吹雪の中に当時の記憶は戻らないままだ。記憶だけでなく小林から贈られたという指輪も失っていて、彼の顔も思い出せない。それがとても悲しかった。
「記憶が無くて思い出せないのは、こばにゃんだって同じだにゃ。吹雪ちゃんだけ自分を責める必要はないにゃ」
 吹雪も記憶を失っていたことを知っていたのか、子猫は冷静だった。山岸からすでに聞いていたのかもしれない。
「それに吹雪ちゃんは素直で優しくて安心できて……むにゃむにゃ、こばにゃんこれ以上は恥ずかしくて言えないにゃ」
 子猫は吹雪から目を逸らし、小さな身体をぐるりと丸めてまるで毛玉のようになった。
 恥ずかしがる子猫を見て、吹雪は何故か懐かしい気持ちになる。その姿が大切な誰かと重なっている気がしたのだ。



 旗艦として出た海の上で、吹雪は失態を犯した。昨日の叢雲や山岸、子猫との出来事が頭から離れずに一瞬気を抜いてしまった途端に、敵の駆逐艦が視界一杯まで迫ってきていたのだ。敵にここまで接近を許してしまった自分に絶望する。
『吹雪ちゃん!』
 執務室から艦隊の様子を見ていた子猫の声が、通信で吹雪に聞こえてきた。その瞬間、吹雪の胸の鼓動が激しくなる。そして再び締め付けられるように痛む、左手の薬指……。
 前にもこんなことがあった。吹雪はこの時、はっきりとそう感じた。今まで頭の中にあった霧がうっすらと晴れていく。
 周りの艦娘達の間ではよく『チャラい』、『遊んでいそう』と囁かれるような外見や振る舞い。しかし本当は人一倍繊細で警戒心が強くて、そして寂しがり屋なところもある。あの人の全てが愛しかった。吹雪が告白を受け入れた時、彼は泣きそうな目と震える手で、この左手の薬指に指輪をはめてくれた。
 ――――――――『俺、今日は眠れないかも』
 ようやく表情を緩めた彼はそう言って、吹雪の額にくちづけをした。じわじわと、甘い思い出がよみがえってくる。
 そんな時間は長くは続かなかった。現実に戻った直後、吹雪を狙っていた敵駆逐艦が砲撃を受けて沈んだ。激しい飛沫が収まった後で目の前に現れたのは、主砲をこちらに向けた叢雲だった。昨日会った他鎮守府の叢雲とは違い、まだ2度目の改造にはたどり着いていない。
 彼女が、敵駆逐艦の背後から砲を撃ったのだ。
「叢雲ちゃん、私……」
 吹雪は動揺しながらも言葉を紡ごうとしたが、それは近づいてきた叢雲に平手で頬を打たれて途切れた。
「あんた何やってんのよ! 戦闘中にぼーっとして、本当に迷惑だわ!」
 吹雪と叢雲のやりとりを、他の艦娘達が心配そうに見ていた。叢雲は普段から口調は強めだが仲間想いであることを、吹雪はよく知っている。
「みんな……ごめんなさい」
 叢雲は鋭い眼差しのまま何も言わずに、吹雪の頬を打った手を握り締めながら背中を向けた。
 自分のたった一瞬の油断のせいで、艦隊の皆に迷惑をかけてしまった。しかも責任のある旗艦なら尚更だ。この痛みを胸に刻みながら、子猫からの通信で撤退を命じられた吹雪は、皆と一緒に母港へと戻った。



 墓石の前で立ち止まった吹雪は、目を閉じるとそこに向かって静かに両手を合わせた。
 1年前に命を絶った青年、小林が眠る場所。彼と過ごした日々の記憶を取り戻した後、山岸に教えてもらいこの霊園を訪れた。
 やがて目を開けた吹雪の足元には子猫がいる。自身の墓を目の前にして、複雑な気持ちでいるに違いない。
 1度は沈んだ吹雪は一時的に記憶を失っていたが、こうして生きている。できれば小林と再会したかったが、今となってはどうしようもない。
「ここに来るまでに、ずいぶん時間が経ってしまったのにゃ……」
 それは鎮守府から霊園までの移動時間ではなく、子猫自身も記憶を取り戻すまでの長い期間を指している。すぐに察した吹雪は、あえて何も言わなかった。吹雪とほぼ同じ頃に、子猫は生前の全てを思い出していた。自分が死ぬ直前までどんな状況で、何を思っていたのか。
 当時の上層部は、小林が指揮を執っていた艦隊が甚大な被害を受け、その責任の重さに耐えきれずに自ら命を絶ったのだと遺族に説明したらしい。
「人間だった時のこばにゃんは、吹雪ちゃんが死んじゃったと思って……吹雪ちゃんがいない世界でなんて、生きてる意味ないって。だから、こばにゃんは」
「司令官、それ以上は言わないでください」
 子猫の言葉を遮ると、吹雪は更に続けた。
「私にとって小林さんとの思い出は、やっと取り戻せた大切な宝物です。でも私は、今の司令官との思い出もたくさん作っていきたい……楽しい時も辛い時も、一緒に居たいです」
「ふぶきちゃん……」
 足元から吹雪を見上げる子猫が、泣いているように見えた。声が震えているせいか、そんな気がした。
「い……今のこばにゃんは昔みたいに、吹雪ちゃんを自分の車に乗せることも、抱きしめることもできないのにゃ。それでも愛してくれるのかにゃ……人間の頃と、同じように」
 こちらに1歩だけ近づきながら、子猫は慎重に吹雪の本心を探る。この警戒心の強さも、まさにあの青年と重なる部分だ。
「私は車の運転はできないですけど、司令官を抱きしめることはできます。だから、ずっと私と……」
 しゃがんで両手を広げた吹雪の胸元に、子猫が飛び込んでくる。ふわふわの小さな身体は、温かくて心地よい。
 見た目は前と違っていても、この腕の中にいる彼は吹雪が本気で愛したひとだ。
 今感じている幸せな気持ちが、確かにそう告げている。


end.




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2017/9/19