もう逢えないかも知れない 規則正しい、しかし荒い呼吸をしながらニナは歩き続ける。 その顔は青白く、足取りは今にも倒れそうなほどふらついていて頼りない。 ここはグリンヒルの森。 何度も足を踏み入れているはずの森だったが、極度の疲労と仲間からはぐれてしまったという絶望感が冷静な思考を奪い去り、 どこまでも続く森の中でニナは途方に暮れていた。 手には抜き身の剣が握られている。王国兵の骸から引き抜いたもので、 切っ先から流れる血がニナの白い靴下を点々と赤黒く染めていた。 それはニナの手には少々重いようで、振り上げるのがやっとという具合だ。 本来の武器であるブックベルトは、先程遭遇したモンスターと1人で戦った際、 不利を悟って相手に投げつけて逃げてきたので、今は手元に無い。 以前、バレリアに剣術の稽古をつけてもらった事があった。彼女から与えられた評価は、 「素質はあるが、総合的な力が不足している」とのこと。つまり剣で戦えるだけの腕力がニナには足りないという事だ。 力が無いと、相手に与えるダメージが少ない上、鍔迫り合いになった時も相手にたやすく押し切られてしまう。 剣ひとつで戦う姿は男でも女でも凛々しくて格好良い、というのはどうやら愚かな幻想だったようだ。 同盟軍で剣を振るって戦う女性達は日頃から鍛えているせいか、ほどよく筋肉が付いて引き締まった腕をしている。 軍に参加するまでは普通の学生で、戦う時は魔法ばかりに頼っていたニナの腕は細く、 ありふれた同年代の少女達のものと変わらない。 右手に宿る火の紋章は、魔力が尽きてしまって使えない。 いくら優秀な紋章でも、肝心な時に使えなければ全くの役立たずだ。 しかし持っている魔力を過信して、武器を強化する事も怠っていた自分こそ反省すべきではないかと今更ながら思った。 こうなってしまった今、いくら反省しても遅いのかもしれないが。 しばらく歩みを進めていると、近くの茂みの奥から葉が擦れる音がした。ニナの身体が竦む。 もしかしたら同盟軍の兵士か、それとも軍主達が探しに来てくれたのか。 しかしわずかな期待も空しく、姿を見せたのは王国兵だった。相手は1人だが、彼が手にしている剣が気になる。 そしてその血走った目と視線が重なった瞬間、王国兵がニナに襲いかかってきた。目の前で振り下ろされた剣を咄嗟に避ける。 考えてみれば同盟軍の兵士がこの森に現れるはずがない。甘かった。 再び迫る王国兵の剣を、ニナも持っていた剣の刃で受け止める。相手のとてつもない力が刃を通してニナを襲う。 怖い。少しでも気を抜いたら間違いなく死ぬ。使い慣れていない武器がこんなにも扱いにくいものとは思わなかった。 剣術の稽古はすぐに飽きて、3日も続かなかった。それ以来バレリアと顔を合わせるのが気まずかった。 もし真面目に稽古を続けていれば、こんな状況でも少しはまともに戦えたかもしれない。 付け焼刃の技術が通用するほどこの世の中は甘くないという事を今、身を持って知った。 とうとう力負けして、ニナの身体がはじき飛ばされた。仰向けの体勢で地面に叩きつけられる。 起き上がろうとした時、王国兵の剣先がニナの喉に突きつけられた。手放してしまった剣を取りに行く余裕は無い。 故郷のグリンヒル市が解放される瞬間をこの目で見届けたかった。そのためにここまで来たのに。 魔法の力無しでは自分の身ひとつも守れない。とんだお荷物だ。 ここで斬られて死んでしまったら、本来の姿を取り戻したグリンヒル市にはもう逢えない。逢えないかもしれない。 絶望に見開かれたニナの目に映ったのは、王国兵の狂ったような笑い顔。 しかしその直後に聞こえた数回の破裂音と共に、その顔の一部が弾け飛んだ。 舞った血肉がニナの服や顔を汚す。絶命した王国兵の身体がニナの上に倒れてきた。 そして遥か向こう側から黒づくめの誰かが近づいてくるのが見えた。 意識を失う直前、ニナを包んでいたのは血と硝煙の匂いだった。 目を覚ました時、ニナはベッドの上に居た。 今、自分が着ているのは血肉まみれの制服ではなく、清潔な白い寝巻きだった。 辺りを見回して、ようやくここが城のホウアンの部屋だという事が分かった。 確か自分はグリンヒルの森に居たはずだ。誰かがニナをここまで運んでくれたのだろう。 枕元には、森の中で無くしたブックベルトが置いてあった。 様子を見に来たホウアンに、誰が自分をここに運んできてくれたのかと訊ね、 返ってきた答えに驚いたニナは居ても立ってもいられなくなり部屋を飛び出した。 あの遠距離からの攻撃、破裂にも似た発砲の音、黒づくめの格好。森の中で助けてくれたのは、もしかすると……。 「クライブ!」 廊下の向こうで背を向けて歩いている人物にその名を呼んだ。振り向きざまの眼差しはいつも通り、愛想の欠片も無い。 夢中で駆け寄り、背の高い彼を見上げた。 「グリンヒルの森で、私を助けてくれたのって……」 「使い慣れない武器で勝てると思ったのか?」 ニナの言葉を遮るように、クライブは低い声で言った。 「足を引っ張るな」 切り捨てるような言葉を残して去って行くその後ろ姿を見て、ニナは胸いっぱいに熱いものが広がるのを感じた。 やはり、助けてくれたのはこの人だと。ニナが王国兵を相手に剣を使った事は、あの場に居合わせた者しか知らないはずだ。 もし、あの森で死んでしまっていたら。 冷たく、しかしどこか寂しい目をした男にも、もう逢えないのだと思って切なくなった。 |