繋いだ手の温もり



月も星も見えない、ひどく渇いた夜だった。
もしかするとそれらが見えないのではなくて、最初から見ようとしていないのかもしれない。 内側にゆるく巻かれたニナの金色の髪を、冷たい夜風が揺らしている。
キスを続けながら、クライブは薄く目を開ける。ニナの肩越しに青いマントの端が見えた。 その持ち主は深く考えなくてもすぐに分かった。
ただ触れ合うような軽いキスを、前触れも無しに深いものへと変えた。
クライブの舌先が、ニナの唇を少しずつ湿らせる。 その直後、控えめに開いた唇の隙間から舌を入れると、ニナの身体が反応して一瞬だけ震えた。吐息混じりの甘い声。 拒まないのを確認して更に奥へと割り込んだ。
やがて青いマントが素早く翻って遠ざかっていく。その存在に、ニナは最後まで気付く事は無かった。
本拠地・屋上。
オデッサへの変わらぬ想いを軸に、フリックとニナの関係が大きく変化した場所。




翌日の夜。
話がある、とフリックに連れられてクライブが足を踏み入れたのは大広間だった。 今は使われていないので、他の人間の気配は無く静かだ。
こちらを振り向いたフリックの表情は固かった。

「お前とニナは……そういう事か。噂を聞いた時はまさかと思ったが」
「……だったらどうする」

沈黙の中に落とされた深いため息。当然クライブのものではない。

「ニナは、お前と一緒に居て幸せになれるのか?」

予想すらしていなかった問いかけに、クライブは思わず口の片端を上げた。 手作りの菓子やら何やらを抱えたニナから散々逃げ回り、ろくに話すら聞こうとしなかった男が言うにはあまりにも滑稽だったので。 クライブの態度を見たフリックは明らかに不愉快そうに顔をしかめたが、それに対して別に罪悪感は感じなかった。

「それはお前が心配する事じゃない。お前はこの先ずっと、死んだ女との過去にすがって生きて行けばいい」

何の遠慮も無しに発した言葉はフリックの逆鱗に触れたようだった。 肌が色を失うほど強く固められたフリックの拳が、一瞬にしてクライブの頬を捉えた。 殴られた勢いで、背後の壁に左半身を打ち付けた。 頭を覆っていた黒いフードが滑り落ちたのも気に留めず、クライブは再び体勢を整える。
口元を辿った指先は血の滴で濡れていた。殴られた時に唇を噛み切ったのだ。
頬に痺れるような痛みを感じるが、何故か心は冷めていた。 今ここに自分が居るのも、目の前のフリックの言葉も、現実とは程遠い出来事のような気がする。実感が無いのだ。 何もかも空回りして心に響いてこない。時間が経つにつれて暗く攻撃的な感情だけが膨れ上がっていく。

「今、生きているあいつは俺が貰う。文句は無いな?」

そう言って指に付いた自らの血を舐め取ると、フリックと視線が絡み合った。

「クライブ、こうやってお前と話をして分かった事がある。俺はニナの気持ちを受け止められなかった。 だから、あいつを大事にしてやれる他の誰かと幸せになって欲しいと思う。でも」
「でも?」
「それはお前じゃない……!」

押し殺したようなフリックの声。険しい表情。その目はクライブに対する非難に満ちていた。
クライブの酷薄な笑みが、更に深くなった。




「あっ、やっと見つけたわ!」

大広間を出てしばらく歩いていると、クライブの背後から声が聞こえた。

「さっきから私、あんたの事ずーっと探してたのよ。昼は戦闘に出てて疲れてるのに、更に走り回って散々だわ。 どうしてくれるの」

その口調は高慢さを感じさせる、しかしどこか許してしまえるような。
声の主であるニナが前に回りこんで来た。その拗ねたような顔を見て、今まで自分を支配していた黒く暗いものが、溶けて消えていく。 そんな気分になった。

「俺を探していたのか」
「……ちょっと、どうしたのよそれ」

問いには答えず、ニナはクライブの唇の端を指先で示した。そこにはフリックに殴られた時に付いた傷がある。

「大した事じゃない、気にするな」

フリックがニナの幸せを密かに願っている事を知ったら、どんな顔をするだろう。しかしそれを伝える気にはならなかった。
ニナの頬に触れて乱れた髪をそっと払ってやると、驚いたような顔を向けられた。

「なんか、変だわ」
「何が」
「今日のクライブ、妙に優しい気がする。普段ならこんな事しないし」
「……気のせいだ、多分」

本拠地の中の人々は寝静まり、廊下を照らすランプの薄明かりだけが2人を包む。 喧騒に満ちた昼間とは違う、静かで濃密な夜の空間。

「そ、そうだわ……あんたの事、シュウさんが呼んでたの。だから探してたのよ」

口ごもりながら顔を逸らすニナの頬は、かすかな朱に染まっていた。

「そうか、行ってくる」
「あ……待って、通り道だし、途中まで一緒に行ってもいい?」
「好きにしろ」

踵を返すと、ニナが慌てて横に並ぶ。クライブは何の断りも無くその手を握って歩き出す。 よほど動揺しているのか、ニナの目線が落ち着かない。握られた手を離そうとはせず、されるがままの状態だ。

「どうせ誰も見ていない」

白く、小さな手だった。そこから体温も繋がって2人はひとつになった。
フリックとクライブの間で起こった争いも、フリックの願いも。
ニナは、何も知らなくていい。これからもずっと。




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