※ぬるいですが、文章中にグロテスクな表現があります。
苦手な方は閲覧を避けてください。










白い指先



気が付くと、廃墟と化した城の前に立っていた。
記憶に無い光景、しかしどこかで見たような。
不思議な感覚にとらわれながらも、ニナは城の中へ足を踏み入れる。
瓦礫に埋もれて足場の悪い通路を抜けると、やがて広い空間へと辿り着いた。
自分以外の人の気配は無く、昼間だというのに薄暗い。崩れかけた天井からわずかに零れる陽光だけが、内部を淡く照らす。
何も考えずにここまで来てしまったが、自分は一体どこへ向かっているのだろう。 誰かを探しているわけでもなく、どこかを目指しているわけでもなく。
何のために進んでいるのか、分からない。それでも足は止まらない。
ふいに顔を上げると、階段の1番上の段に黒い布を纏った誰かが腰を下ろしているのが見えた。 こちらに背中を向けているため、顔を窺う事はできない。

「……誰だ」

発せられた声に、ニナの足が止まった。ごく短い言葉だったが、その声はあまりにも耳に馴染みすぎたものだった。
憧れと思い込みが入り混じる、無邪気な恋を切り捨ててまで手に入れようとした、自分とは住む世界が全く違う男。 いつの間にか、欲しくて欲しくてたまらなくなっていた。
ニナは再び歩き出す。少しずつその歩調は早まり、駆け出していた。
階段の上に居る男に向かって手を伸ばした瞬間、急に全身を寒気が襲った。そして、身体に変化が訪れる。
伸ばした右手。その指先から、皮膚や肉が腐って溶けていく。べちゃり、という不快な音を立てて、腐った肉がニナの足元へ落ちた。 その右手はもう、肉の欠片がこびり付いた白い骨が残っているだけだ。
狂ったような悲鳴が、ニナの喉から絞り出された。それでも男は振り返らない。
その後も侵食は止まらず、ニナの全身を覆いつくした。
身体は腐臭にまみれ、かろうじて人間の原型を留めているが、よほど親しい者でもこれがニナだとはきっと分からない。
足を踏み出すたびに、肉がはがれ落ちていく。 こんな自分を、あの男はいつも通り名前で呼んで、受け入れてくれるだろうか。それとも容赦無く、その銃で撃つだろうか。
ようやくこちらを振り向いた男の表情を見届けぬまま、ニナの意識は闇へと沈んでいった。




「ニナ」

その声が、沈んだ意識を再び呼び戻していく。大きな手が肩を揺さぶる。
目をゆっくり開けると、テーブルの木目模様が見えた。
いつの間にか、ここに伏して寝ていたようだ。
テーブルのそばにはクライブが立っていて、こちらの様子を見ている。窓から差し込む橙色の夕日が、彼の左半身を染めていた。

「ここで寝るな」

その言葉に辺りを見回すと、ここが兵舎である事を思い出した。寝るなら自分の部屋に帰れ、という意味らしい。
未だに眠気から抜けきれていないニナの乱れた髪に、戦い慣れたクライブの武骨な指が触れる。 悪夢の余韻が、小さくなって消えていった。
もっと名前を呼んでほしい。この身体に触れてほしい。
求め出すと止まらない、貪欲な想い。
知ってしまったら、もう後戻りはできない。




翌日、同盟軍に所属する者や、そこに縁の深い者達が本拠地前に集められた。
この軍では、死者の魂を慰めるための祭儀が定期的に行われる。
軍主の形式的な口上により、この本拠地の下に眠る11年前の悲劇をニナは初めて知った。
昨日の夕方に見た夢を思い出す。
あの廃墟は、本拠地の過去の姿だ。吸血鬼の襲撃によって壊滅した、ビクトールの故郷。
ニナは薄く開けていた目を再び閉じると、皆と同じように黙祷を捧げた。




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