メモリーズ



事の始まりは、ある朝突然にやってきた。
「おはよぉ〜!ルックさぁ〜んっ!!今そっちに行くから待っててね〜♪」
 いつも通り、石版の前に立っていたルックに向かって声をかけるビッキー。
 間延びした能天気な声と極上の笑顔で、手を振りながら階段を駆け降りてくる。
(別に呼んでないけど......)
 ルックは心の中でそうつぶやきつつも、何故かビッキーから目が離せなかった。
 とてつもなく悪い予感がしたのだ。
 直感は人一倍冴えてる。
 何かとんでもない事が起こりそうな予感が。
 ―――――次の瞬間、予感は見事に的中した。
 ビッキーの身体が、階段の上でバランスを崩して傾く。
「.........危なっ......!!」
 ルックは杖を放り出して走ったが、遅かった。
 彼が着くより早く、ビッキーの身体は床に強く叩きつけられていたのだ。
 その場を偶然通りかかったニナとビクトールも慌てて駆け寄ってきて、ビッキー は急遽医務室へ運ばれた。
「かなり、頭を強く打ってますね。」
 ホウアンが深刻な顔でベッドの上のビッキーの頭に触れている。
 あれから約三十分経っても意識を失っているままで、一向に目を覚ます気配は無い。
「で、ビッキーは大丈夫なの?」
「とりあえず、目を覚まさない事にはどうにも......」
 ニナの問いにも、ホウアンはため息をつくばかり。
「お......気がついたみたいだぜ?」
 ビクトールがそう言うと、皆の視線がベッドの上のビッキーに集まる。
 ゆっくりと、ビッキーは目を開けていく。
「あれ......あれれ?わたし、どうしてこんなとこに???」
 起き上がるなり、辺りを見回しながら戸惑うビッキー。
「なんかね、階段から落ちたみたいよ......大丈夫?もうどこも痛くない?」
「今度からは気を付けろよ。あのまま意識戻らなかったらシャレになんなかったぜ」
 目覚めたビッキーに、ニナとビクトールが声をかける。
「うん、だいじょうぶだよ。そっか、階段から落ちたんだっけ......階段から......うーん......」
「本当に落ち着きが無いね、君は。」
 ホウアンの隣で成り行きを見守っていたルックが、あっさりと言う。
 ビッキーの意識が戻り内心、ほっとしていたが。
 んなルックを見て、ビッキーは不意に真顔に戻った。

「えっと......誰、だっけ????」

『......は?』
 その場に居合わせた、ビッキー以外の全員が聞き返す。
 無論、ルックも含めて。
「お、おいおい......変な冗談よせって......なぁ?」
 ビクトールの苦笑いにも、ビッキーは無反応。
 ――――あまりにも気まずい空気が流れていく。
「ビッキー......ほんとに、ルック君の事判らないの?」
「え、この人ルックさんっていうの?ニナちゃんのお友達?それともビクトールさんの......」
「別に構わないよ。ビッキーが本気で僕の事忘れてても」
 ビッキーの言葉を遮るようにルックは冷たく言い放つと、そのまま医務室を出ようとする。
「ま、待ちなさいよ!あんた、このままでいいの!?」
「構わないって言ってるだろう?しつこいよ」
 ニナが引き留めるのも構わず、ルックは出て行ってしまった。

 どうやらビッキーの記憶からは、ルックに関する事のみが消滅してしまっているらしい。
 ルック以外の身近な人物の事は名前も顔も、しっかりと言い当てていたのだから。

「やっぱ、頭打ったのが原因か......?」
 大きなパンを豪快にかじりながらビクトールが言う。
 同じテーブルで彼の向かいの席に座っているニナは呆れたように、
「あんたねぇ、食べるか喋るかどっちかにしなさいよ......それにしても、ルック君の事だけ忘れるなんて変よね」
 昼過ぎ、二人は混雑しているレストランで昼食を取りながら、先程の事について話し合っていた。
 やはり階段から落ちた時に頭を強打したのが、直接の原因としか考えられない。
 ホウアンもそう言っていた。
 ビッキーは今も医務室で休んでいる。
 ルックは......あれ以来姿を見せない。
 石版の前にも居なかった。
 いくらビッキーが天然ボケでも、三年前の解放戦争でも共に戦い、そして今最も近い存在であるはずのルックの事をあんなにあっさり忘れてしまうとは、  誰も予想すらしてなかった。
 ルックは、この状況を本当はどう思っているのだろう。
 自分の事を忘れられてあんなに平気でいられるはずがない。
 別に忘れたままでも構わない、とは言っていたが......。
 きっとあんなの本心ではないはずだ、とニナは思っていた。

 食事を終え、軍主達と戦闘に出るビクトールと別れたニナはビッキーのいる医務室へと足を運んだ。
 あれから時間も経ったし、もしかしたら少しでもルックの事を思い出しているかもしれない。
 ......医務室の前には、ルックが立っていた。
 彼はドアノブに手をかけようとしては離し、少しため息までついていた。
 ニナはそんなルックの様子に苦笑しながら、
「入りたいなら入れば?実は気になってるんでしょ、ビッキーの事」
「.........!」
 ルックは弾かれたようにドアから離れ、ニナのほうを振り返った。
 そして露骨に憮然とした表情で、
「別に」
「じゃあ、こんなことで何やってんのよ?」
「僕がどこで何をしてようと、あんたには関係ないだろ」
 そう言うと、風の魔法を唱えて姿を消してしまった。
「.........かっ、かわいくなぁーーーーーいっ!!!」
 残されたニナは怒りに任せてそう叫んでいた。

 いろいろうるさいニナから逃れて図書館で時間をつぶした後、ルックは石版の前に戻った。
 極力冷静でいようと努めているのに、頭の中に浮かぶのは何故かビッキーの事ばかり。
かなりの毒舌家で人付き合いの悪いルックが、この軍で唯一頻繁に会話を交わしているのがビッキーだった。
 魔力は高いが、言動からしていかにも世間知らずでトラブルメーカーな彼女の面倒を、いつも見る羽目になっていて。
 周囲からはいつの間にか、ビッキーの保護者扱いをされ。
 呼び方ひとつとってみても、ビッキーに対しては『君』で、その他の人間に対しては『あんた』と無意識のうちに使い分けている。
 もし階段から落ちそうになったのがビッキーじゃなかったら、大切な杖を放り出してまで助けになんか行かなかった。
......結局、助けられなかったのだが。
 やはりビッキーは自分にとって特別な存在なのかもしれない。
『誰だっけ?』と真顔で言われた時の凍りつくような感覚は、今でも残っている。

 ―――――杖を、強く握り締める。
 ビッキーが本気で僕の事忘れてても構わない、だって?
 あんなのただの強がりだ......本心なんかじゃない。
 あの時、一刻も早く医務室から出なければどうなっていたか判らない。
 そう思うと、怖かった。

「ルック......さん?」
 聞き覚えのある女の声で、ルックは我に返った。
 見慣れた顔がそこにあった。
「......ビッキー......」
「はい♪」
 いつもと変わらない、能天気な笑顔で返事をするビッキー。
 しかしすぐに憂鬱そうな顔になる。
「ごめんね......やっぱりわたし、あなたの事思い出せない......」
 さっきの笑顔を見て、ひょっとしたら記憶が戻ったのでは、という ルックのかすかな希望も今の一言で打ち砕かれる。
「ニナちゃんが教えてくれたんだけど、あなたとわたしってお友達だったんだね?」
「......まあ、ね。」
 どう言えば良いか判らず、とりあえずそう答えた。
「どうして忘れちゃったんだろ......」
 寂しそうに、ビッキーがつぶやく。
「なんかね、すごく大切な事だった気がするの......」
「............」
「あなたとこうやってお話してたら、思い出せるかな?」
「......判らない......」
 ルックの語尾がかすかに小さくなって、震える。
 杖を握ったまま、なるべく隣のビッキーを見ないようにしていた。
 もし彼女と目が合ってしまったら、気持ちのブレーキが効かなくなりそうで。
 なのに。
「どうしたの、ルックさん......さっきから、何だか......」
 ビッキーがそう言いながらルックの顔を覗き込んだのだ。
 絡み合う、視線――――

 ルックの中で何かが弾けて、思わずビッキーを抱きしめていた。

「......!?」
 ルックの腕の中でビッキーは混乱のあまり、言葉がうまく紡げない。
 自分の身体を抱きしめるルックの腕の力がさらに強くなり、それに比例してビッキーの体温も上昇していく。
「ルックさんの腕の中......あったかい......」
「......変な事、言うなよ......」
「だって......だって、本当に......」
 囁き合うような会話。
 ビッキーの両手が、ためらいながらもルックの背に回される。
 白昼堂々、石版の前で抱き合う二人を、通りすがりの者達が驚いて振り返って行く。
 ルックはビッキーの後ろ頭を優しく撫でる。
「あ......」
「こうされるの、嫌?」
「ううん......なんか、すごく安心するよ......」
「じゃあ、こういうのは?」
 ルックはビッキーを解放すると、代わりに彼女の頬にそっと触れた。

 ―――――その瞬間、身も心も熱くなって。
 なんだかとても懐かしい気持ちが、どこからか溢れ出してくるような。
 ビッキーの記憶の中にかかっていた霧が、晴れていく。

「ルックさん......」
「......ん?」
「わたしが階段から落ちそうになった時......助けに来てくれて、ありがとう」
「......思い出したの?」
「うん......ごめんね、ごめんね、わたし......」
「何も言わなくていいよ」
「うん......」
 もう一度、ルックはビッキーを強く抱きしめた。
 おそらくビッキーにしか見せる事の無い、穏やかな表情で。




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