別れの挨拶 もし赤木と別れる日が来たら、俺は泣くだろうか。 何がきっかけでその時を迎えるのかは分からないが、明日になるのか、数ヶ月後か。 初対面の夜に恥をかかされて酷い目に遭ったのに、今はあいつと別れたくないと思っている。おかしな話だ。 朝、目を覚ますと赤木が畳に腰を下ろした体勢で俺を見ていた。 その顔はいつもの冷めたものではなく、どこか穏やかというか。とにかく変な感じがした。 「おはよう、矢木さん」 「……もう起きたのか、早いな」 重い目蓋を開きながら赤木のほうを向くと、すぐそばにはあの古い鞄が置いてあった。 こんな早くからどこかに出かけるのだろうか。俺が出かけている昼間はどこで何をしているか謎な奴だから、あまり深くは考えなかった。 「俺、ここを出て行くから。もう戻ってこないと思う」 「えっ……?」 まだ目覚めたばかりのせいか、赤木の言葉をうまく受け止めることができない。 ここを出て行く。もう戻ってこない。確かにそう言っていた。どう考えても別れの挨拶だ。しかしあまりにも唐突じゃないのか? だるさの残る身体を布団から起こし、赤木と向き合う。こちらを静かに見つめる眼差しに、俺をからかうような感情は含まれていない。 赤木は本気だ。そう思って俺は呆然とした。これから何を言えばいいのか、どうすればいいのか。 いくら必死で引き止めても、赤木は自分の考えを覆すような奴じゃない。それでも声が震えそうになるのを堪え、俺は再び口を開いた。 「なあ赤木、俺何かお前を怒らせるようなことしたか」 「別に何もされてないけど、長い間居座るのもどうかと思うし」 「前は出て行けだの帰れだのって言ったけど、最近は違うだろ? 俺はお前のこと……!」 声を荒げてそう言いながら、俺は赤木の腕を掴んで引き寄せた。衝動のままに強く抱き締めると、馴染んだ赤木の匂いがした。 もうこいつの前では、みっともない姿を晒したくなかったのに。出て行く赤木を笑顔で見送ってやるのが正しいのかもしれないが、 そこまで割り切れそうもない。 これほど赤木に気持ちが傾いていたのだと残酷に思い知らされる。 これから何年、何十年が経って赤木の顔も声も、身体の温もりまで薄れて忘れていってしまうのが怖い。 「行くなよ、どこにも行かないでくれ……赤木」 そう囁いて、抱き締める力を強くする。たとえ1パーセントでも俺の頼みを聞き入れてくれる可能性があるのなら、 つまらないプライドなんて捨てたって構わない。こうして最初から素直になっていれば良かったのだろうか。 「あんたとは昔も含めて色々あったけど、ここに居る間は楽しかったよ」 優しい口調で言った後、赤木は俺にくちづけた。 軽く押し当てられた唇の感触に、長いようで短かった今までの出来事が胸によみがえってきて、情けなくも涙が出そうになった。 「じゃ、そろそろ行くから」 唇を離して俺の腕から抜け出した赤木は、素っ気なく呟いて立ち上がる。鞄を持って玄関に向かうその背中を、俺は黙って眺めていた。 もうそうすることしかできなかった。俺なりに必死だった説得も、赤木の固い決意を揺らせずに終わった。 赤木が出て行き、俺はまたひとりになった。あの夜の街で偶然再会するまでの空虚な日々に戻ってしまった。 再会してからは6年振りに激しくペースを乱され、困惑した。 散々振り回されて泣いて怒って、一緒に暮らすようになって、そしていつの間にか赤木が大切な存在になっていた。 あんなにあっさりと出て行った赤木は、俺との別れを少しも惜しまなかったのだろうか。 ただそれが、ひどく悲しかった。 |