始まりの合図 矢木先生、と廊下で声をかけられて立ち止まる。 振り向いた先にはひとりの生徒が居た。大人しそうな感じで、特徴的なのは顔のそばかすくらいだろうか。 教科書とノートを抱き締めるように持っていて、少し緊張した面持ちだ。 「あの……赤木さんは今日はお休みですか?」 「赤木?」 俺が受け持っているクラスの、赤木しげるのことだろうか。同じ苗字の生徒はあいつしか知らない。 それにこの生徒は、俺が赤木の担任だから休みかどうか知っていると思ったのだろう。 上靴に入っているラインの色から、その生徒が1年生だということが分かった。 「あいつなら来てるぜ、会えなかったのか」 「さっき教室に行ってみたんですけど、居なかったので……」 「何か用事があるなら、伝えておくけど」 「いえ、大丈夫です。すみませんでした!」 生徒はすごい速さで走り去って行った。途中で女子生徒にぶつかりそうになり、律儀に謝っている。 それにしても赤木を慕う後輩も居るのか。意外で驚いた。赤木はどこの部活にも入っていないはずなのに、 あの下級生とはどこで知り合ったんだ。雰囲気的に、とても気が合うとは思えないが。 もしかすると赤木は、ああいう純粋で真面目そうな奴が好きなのかもしれない。 ……別にあいつが、どんなのが好みでも俺には全く関係の無いことだ。どうでもいい。 来年の春にクラス替えがあれば担任も変わり、赤木とはほとんど顔を合わせなくなる。 数ヶ月前に辞めた竜崎先生の代わりに赤木の担任になった俺は、短い付き合いになるが。 その時、あいつの進路をまだ聞いていなかったことを思い出す。何だかんだとはぐらかされて、ここまで来てしまった。 前に問い詰めた時、卒業後は俺の家に住むだとか冗談を言っていたが、そろそろ本気で答えてもらわないと困る。 思わず舌打ちしながら職員室のドアを開くと、誰かにぶつかりそうになった。 「ようやく見つけた」 「赤木!?」 顔を上げたその生徒と目が合って、驚いた俺は後ずさりする。 「どうしたの、そんなに驚いて」 「いや、それよりどうしてここにお前が」 「あんたを探しに来たんだよ、矢木先生?」 俺が下がった分だけ、赤木はこちらへ踏み込んでくる。いや、迫ってくるという表現のほうが正しいか。 職員室に居る教師達が、訝しげに俺達のほうを見ている。気まずいので、とりあえず廊下へ赤木を連れ出した。 「1年の生徒が、お前を探してたぜ」 「へえ、どんな生徒?」 「大人しそうで、そばかすの……」 「ああ、治か。分かった」 親しげな感じで下の名前を口に出す。本当に、どういう繋がりなんだ。 「あいつが3年に絡まれてるのを、俺が助けただけさ」 「お前が? 珍しいな。他人には無関心そうなのに」 「別にそういうわけじゃない、こうしてあんたと楽しく話してるわけだし」 「俺は微妙なんだが……」 教師に対してあんた呼ばわりなのも微妙だ。絶対こいつは俺を目上の人間だとは思っていない。 授業中、赤木に色々突っ込まれて自信を無くした教師は何人も居る。実は俺も被害者だ。 しかし成績は良いほうなので、進学するにしてもそれなりのところへ行けるはず。 それとも就職か? こいつがどこかの会社で真面目に働くなんて想像できないが。 「そういえば先生、進路のことなんだけど」 「やっと決まったのか、それじゃこの前配った紙に……」 「その前にどうしても相談したいことがあるんだよね」 そう言って赤木は俺をどこかへ引っ張っていく。どこへ行くつもりだ。 生徒の相談に乗るのも教師の務めだと自分に言い聞かせながら、とりあえず要求に従った。 押し込まれた進学資料室に内側から鍵をかけられ、慌てて赤木のほうを振り向いた。 「おい、何で鍵なんてかけるんだ」 「最中に誰かが入ってきたら困るだろ、特にあんたが」 獲物を狙う獣のような目をした赤木に、部屋の端のほうへと追い詰められる。 いつもなら資料を探しにくる生徒が何人か居るはずなのに、今日に限って誰の姿も見えない。 全てが赤木の都合の良いように進んでいるような気がした。 最中って何の話だ。それに誰かが入ってきたら俺が困るって、どういうことだ? 俺の身体を、赤木が両腕で囲うように壁へと押し付ける。 「進路を考えなきゃって思うんだけど、最近どうも集中できなくて」 「自分の将来のことだろ、ちゃんと考えろよ」 「分かってるさ、だから」 赤木は低く笑いながら、俺の耳元に唇を近づけてくる。どこに居ても目立つ白い髪が、目の前で揺れた。 「あんたを抱かせてくれたら、考えられるようになるかも」 そう囁かれた瞬間に冷たいものが背筋を走った。それはまるで強い電流のような。 生徒の進路については相談に乗って、出来る限り協力するようにしてきた。 しかし生徒の間違った性欲処理の世話までしてやる気は無い。 赤木にこんな趣味があったことも衝撃だった。正直、ここから早く逃げたい。 「俺のことで、他の先生からも色々言われてるんじゃないの?」 真っ直ぐに痛いところをついてくる奴だ。 生徒に言うことを聞かせられないのは、俺の指導がまずいせいだと定年間近のベテラン教師に指摘された。 俺のことが気に入らないらしく、毎日のように何かと嫌味を言ってくる。 この人相のせいで昔から何かと誤解されがちで、しかも普段から派手な服を好んで着るから、ますますヤクザのように見られてしまう。 教師を見た目で判断する、保護者からの受けがあまり良くないことも知っている。かと言って今更どうすればいいのか分からない。 「ここでするのが嫌なら、別の場所でも構わないけど」 「……冗談じゃねえ、何で俺がお前と」 「いつまでそんな強気でいられるかな。あんた、本当に困ってるんだろ?」 そうやって脅す気なのか。どうしてそこまで俺にこだわるんだ。男なんか抱いても面白くないだろうに。 「赤木お前、こんなことして何が楽しいんだ」 「あんたを困らせるのが、楽しい」 「授業中も散々困らせてるんだから、もう充分だろうが」 「前の担任はすぐに辞めていったのに、あんたは我慢強いよね。若いせいかな」 高校生の赤木に若いなんて言われたくない。それに、後を任された俺まですぐに辞めるわけにはいかなかった。 こうして俺に迫ってくる、おかしな生徒が居たとしても。 「もしその気になったら、いつでも待ってるからさ」 赤木は俺から離れると、背を向けて進学資料室を出て行った。 まだ身体の奥に恐怖が残っていて、なかなか消えてくれない。一体どうなってるんだ。 あんな奴の言うことになんか従いたくない。もし流されてしまったら、何もかも壊されて後戻りできなくなる。 最近、生徒との付き合いがうまくできずに悩む教師がたくさん居るらしい。現実は昔の学園ドラマのようにはいかない。 俺の災難は、まだ始まったばかりだ。 |