重なる微熱 アパートに着くと濡れた傘を閉じ、それを軽く振って水気を飛ばした。 この傘は外出先から帰る途中に突然雨が降って来たため、近くの店で買った安物だ。 本当は1円でも惜しいところだったが、濡れて帰るわけにもいかなかった。 明日は大事な面接が控えているので、風邪を引いてしまっては元も子もないからだ。 今度こそちゃんと就職しなければ、これからの生活が危い。代打ちの頃はいくら使っても有り余るほどの金があったが、 いつまでも昔を懐かしんでいても仕方がない。古びたアパートでの慎ましい生活こそ、自分が置かれている現実なのだから。 玄関に続くドアを開けると、赤木が居た。いつものシャツを半分脱いだ格好で、こちらを向いて立っている。 口を少し開いた赤木が何か言う前に、矢木は平静を装いながら再び外に出てドアを閉めた。 ここで切れればまた赤木の思い通り、うまく丸め込まれてしまう気がする。そうなる前にとりあえず落ち着こうとした。 「何やってんだよ、入んねえの?」 「うわっ!」 目の前のドアが開いて赤木が顔を出すと、驚きの声を上げて後ずさりしてしまう。 近くで見た赤木の全身は濡れていて、水滴が白い髪を伝って滑り落ちていった。 「急に降ってきてさ、勝手に雨宿りさせてもらってるから」 そう言うと赤木は、部屋の中へ戻っていった。畳に腰を下ろし、タオルで髪を無造作に拭き始める。 矢木はその場に残されたまま呆然としていたが、こうして立っていても寒いだけなので続いて部屋へ入った。 「あのなあ赤木、うちを休憩所代わりにするなよ」 「分かってるよ、でもここから工場の寮までだいぶ距離あるし」 過去に色々あったせいで、赤木には決して好意は抱いていない。 しかしこのひどい雨が降っている時に追い出すほど非情にはなれずにいる。 温かい飲み物でも出そうとしたが、飲めるものといえばこの家には酒と水しかなかった。 熱い湯に砂糖でも混ぜれば少しはマシかと思っていると、顔を上げた赤木と目が合う。 赤木は着ていたシャツを脱ぎ捨て、裸の上半身を晒したまま立ち上がって近づいてくる。 嫌な予感がした。 壁際に追い詰められた途端、まるで矢木を囲うように壁に両手をついた赤木に阻まれて、逃げられなくなった。 「早く出て行ってほしい?」 「別に……雨が止むまで居ればいいだろ」 「身体が温まったら、すぐにでも出て行ってやるよ」 そんな囁きの後、耳に柔らかな湿り気を感じた。舐められたのだと分かった瞬間、弾かれたように赤木から身を離したが、 動きを封じられているためうまくいかず、誤って背後の壁に頭を打って赤木の失笑を買った。 「いい加減に空気読めば、矢木さん」 「読みたくねえよ、そんな空気!」 できる限りの虚勢を張って言い返す。もうすでに何もかも見透かされているかもしれないが、 理不尽に流されるよりはずっといい。 それでも今が、かなり不利な状況であることには変わりない。甘く見られているのを逆手に取って、驚かせてやろうと思った。 なけなしのプライドを捨てて、赤木に不意打ちのキスをする。 しかし最初から思わず固く目を閉じてしまったため、実際に矢木の唇が触れたのは赤木の頬だった。 新婚夫婦の朝の挨拶でもあるまいし、いくら何でも外れすぎだ。 気まずいまま顔を離すと、赤木は目を細めて愉快そうに笑みを浮かべていた。 「そんなガキみてえなキスじゃ……全然足りねえな」 今度は赤木から口付けてきた。矢木が少しだけ唇を開いた隙にお互いの舌が触れ合った。 首に両腕をまわされて固められ、されるがままになる。 結局こうなるのか、と思うと力が抜けていく。ろくな目に遭わないと分かっていても、 赤木の気まぐれに付き合う羽目になってしまう。とらわれているのは、すでに身体だけではないのだと気付かされた。 「もう、やめろって……」 「矢木さんが、あんなキスするから悪いんだぜ」 「あれが? やったうちに入らねえだろ、どう考えても」 「昔のキャタピラの件といい、あんたの人生って墓穴掘ってばかりだよな」 「またお前は、余計なことをべらべらと……」 赤木を睨み付けた時、拭ききれていなかった水滴が首筋を通って、肩のほうへ流れていくのが見えた。 それを何も言わずに舐め取ると赤木は息を詰め、矢木の首にまわしている腕の力を強める。 2人の身体が密着して、微妙に差のある体温が重なった。 あまり深い刺激は与えていないので、それ以上赤木が崩れることはなかった。 「いい雰囲気だし、このまま最後までするかい?」 こちらに目線を向けながら、赤木は矢木の上着を脱がそうとする。さすがにそれはまずいので、腕を掴んで止めた。 不覚にも雰囲気に流されかけたのは確かだが、取り返しのつかない事態になるのは避けたかった。 何年も前に賭博の世界から遠ざかった自分が、好んで危ない橋を渡る必要はない。 「冗談じゃねえよ、こんな昼間から」 「じゃあ夜ならいいってこと?」 「夜まで居座るつもりか」 「まあ……雨次第かな」 窓の外では更に激しくなった雨が、延々と降り続く。 多分、もうしばらくは晴れないだろう。 |