なまえをよんで





「遅かったね、圭次さん」

帰宅して靴を脱いでいると赤木が声をかけてきたので、普段通り何気なく返事をした。 しかしその数秒後に襲ってきた違和感に、矢木は背後を振り返る。そこには赤木が、薄く笑みを浮かべながらこちらを見ている。面白がっているような表情で。

「お前、さっき……」
「さっき?」
「いや、別に何でもねえよ」

俺のこと圭次って呼んだよな? と訊ねようとしてやめた。どうせまた赤木が悪知恵を働かせて、動揺させようとしているのだ。
性交の最中に他人の名前を呼ばれたわけでもなく、矢木が怒る理由はどこにもなかった。むしろ、下の名前をちゃんと知っていたのかと思うと悪い気はしない。 今までは苗字で呼ばれ続けてきたので、下の名前を知らないどころか興味がないのだろうと思っていた。
矢木が自ら教えたことはなかったが、この家にここまで入り浸っていれば知る機会はいくらでもある。そう考えると不自然ではなかった。

「銭湯、今から行くか?」
「俺はいつでもいいけど、矢木さんは晩酌の前に行ったほうがいいんじゃないの」
「まあ、そうだな」

今度はいつもの呼び方に戻っていた。やはりこう呼ばれるほうが落ち着く。先ほどのように甘い声と優しい口調で下の名前を呼ばれると、動揺を隠し切れない。
さすがに酒を飲んだ後で風呂に浸かるわけにもいかない。銭湯で汚れを洗い流してから食事をして、ビールを飲みながら夜をゆっくり過ごしたい。 そういえば赤木は今夜も泊まるのだろうか。以前のように渋る気はないので構わないが。
洗面器や石鹸を出して、銭湯に行く準備を始めた。赤木と共用するようになってから、石鹸の減りが早くなっているのが目に見えて分かる。 もうだいぶ小さくなってきており、そろそろ新しいものを買わなくてはならない。

「じゃあ、そろそろ行くぞ」
「圭次さん、夕飯は魚が食べたいんだけど」

今度は横から矢木の顔を覗き込みながら、再び下の名前で呼んできた。今日に限ってどういうつもりなのか知りたかったが、ここで反応したら負けのような気がした。 何事もないような態度を取り続けていれば、いずれ飽きてやめるだろう。所詮は子供の悪戯に過ぎない。

「さっ、魚か! そういえば冷蔵庫にまだ」

ごまかすように大声で言って立ち上がろうとすると、赤木の両腕が矢木の首にまわってきた。正面から抱き締められた格好になり、動けなくなる。

「動揺してるの、見え見えなんだけど」
「さあ、何のことだか」
「俺のことも、名前で呼んでみてよ……ね?」

身体が密着していることで、隠していた動揺はもはや抑えきれなくなっていた。結局は全て見透かされていたわけだが。 このまま赤木の思い通りになるのは悔しい。もし従えば得意気な顔でからかわれるだろう。しかし今はとても逃れられる状況ではなかった。
早く、と囁いて赤木は猫のように身体をすり寄せてくる。ああ、何がどう間違ってこんなことに……そう思いながら唇を開いた。

「しげ……」

言いかけた途端、玄関から呼び鈴が鳴った。天の助けだと思いながら赤木を引き剥がすと、矢木は早足で玄関に向かった。 開けたドアの向こうには隣に住んでいる若い男が立っていた。田舎から大量に果物が送られてきたので、少し分けてくれるらしい。
背後からは赤木の視線を強く感じる。助かったはずが、余計に悪い方向へと転がってしまった気がした。


***


銭湯へ向かう最中、赤木は無言のまま矢木の隣を歩いている。 話しかけるにもしても、どうやって切り出せばいいのか分からなかった。これほど気まずい雰囲気になるくらいなら、つまらない意地を捨てて赤木の名前を呼んでやれば 良かった。どうせ赤木にからかわれるなど、いつものことだ。今更珍しくもない。
赤木は名前を呼ばれなかったことが、そんなに不愉快だったのだろうか。そんなことを根に持つような性格にも見えないが。

「なあ……さっきのこと」
「もういいよ」

矢木の言葉をあっさり切り捨て、小さな洗面器を抱えた赤木は先を歩いて行った。その背中が遠ざかるのを眺めながら呆然としていたが、我に返ると後を追いかける。

「待てよ、赤……いや、しっ、しげる!」

切羽詰まった調子で叫ぶと、赤木の歩みが止まる。とうとう名前で呼んでしまい、恥ずかしさのあまり歩道の真ん中でどうにかなりそうだった。 赤木の機嫌が直るならこのくらいは安いのかもしれないが、実際に呼んでみると何だか落ち着かない。
こちらを向いた赤木は愉快そうな表情で目を細めると、

「やっぱり変な感じだから、いつもの呼び方でいいよ。矢木さん」
「な、何だよそれ……!」

あまりにも気まぐれすぎる赤木には、文句のひとつでも言ってやらないと気が済まない。
赤木はまるで幼い子供を見守る母親のような目で、矢木が追いつくのを眺めていた。




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2008/2/3