いつもとは違う夜 夜中にドアが開いたかと思えば、何かが倒れこむような音が聞こえてきた。 赤木が振り向いた時にはこの家の主である男が玄関に突っ伏していて、起き上がる気配すらない。 「遅かったね、矢木さん」 そばに寄って声をかけてみても反応を見せず、矢木は小声で何かを呟いている。 待っていてもきりがないので強引に肩を押し上げて仰向けにしてみると、途端に強い酒の匂いがした。 目が虚ろというか何と言うか、とにかく酔っているようだ。 それほど多く飲んでいるのを見たことがなかったので、ここまで潰れているのは珍しい。 その気にさせるために無理に飲ませたことはあったが、それはまた別の話だ。 「ここで寝るなよ、あんたの布団敷いてきてやるから」 「ん、ああ……」 「それとも先に水でも持ってくる?」 そう言って再び立ち上がりかけると、手首を掴まれた。どこか熱い感覚がその部分から伝わってくる。視線が重なった。 「帰ってきたら、お前が居なくなってるんじゃないかと思ってた」 「何で?」 「いや、根拠はねえけど、そんな気がしてさ」 「昔はよく、帰れだの出て行けだのってうるさかったくせに」 からかうような赤木の言葉に、矢木は黙り込んだ。 最近、この男の態度が昔とは随分変わってきている。徹底的に避けられて嫌われて、邪険に扱われていた頃が嘘のようだ。 初対面は決して穏やかではない、それどころか他人の金や生命を背負った代打ち同士として出会った。 職業も立場も何もかもが違う者達が見守る勝負で赤木は勝ち、矢木は負けたのだ。 そのことについて、赤木は何の罪悪感も持っていなければ後悔すらしていない。 しかしこの男は負けたことで人生を狂わされた。離れていた6年の間、抜け殻のような生活をしていたらしい。 ヤクザにも厚く信頼されていたほどの代打ちだった矢木はもう、牌に触れることすらできなくなった。 今では麻雀とは遠くかけ離れた、給料の安い地味な仕事をしながら生活をしている。 赤木が前に務めていた玩具工場を辞める前から、夕方あたりに押しかけて食事を作ってもらったり時々寝泊りさせてもらっていた。 その礼として、ちょっとしたギャンブルで得た金を渡そうとしたが、凄い剣幕で突き返されてしまった。 投げ付けられた、と言ったほうが正しいような勢いで。 あの時の矢木が何故あんなに怒ったのか、赤木には未だに分からない。訊ねる機会を逃したまま長い時間が過ぎた。 「どうしてお前は……こんな俺のそばに居ようと思った?」 「こんな俺、って。唐突に何言ってるの、あんたらしくもない」 「俺はお前が尊敬できるような打ち手でもなかったし、広い心で包み込んでやれるような人間でもないだろ。それなのに、どうしてお前は」 「……随分おかしなことを言うね。そんなに気になるの?」 「おかしいかな、俺って」 酔っているせいなのか、何もかもが普段の矢木なら口に出さないようなことばかりだ。 それなら今ここで赤木が答えたことは、明日になれば忘れているかもしれない。 たとえ覚えていても忘れていても構わない。今この場でこの男に伝えてこそ、意味がある。 「ひねくれているけど、色々と分かりやすいところが面白いからかな。見てて飽きないし」 「……お前にとっての俺って、小さい子供みてえなもんかな」 「まあ、大人として尊敬していないのは事実さ」 「参ったな……もう笑うしかねえよ」 酒で紅潮した顔で苦笑いを浮かべる矢木の唇を、赤木は自然な動作で奪った。ただ重ねるだけの軽いくちづけ。 肌寒い夜に流れている静かな時間が、その瞬間だけは止まったかのようだった。 背中にまわってきた腕に強く抱き締められる。時間が経つにつれて、くちづけは深いものへと変わりつつあった。 やがて惜しむかのように、ゆっくりと互いの唇が離れた。微かに濡れた余韻を残しながら。 「なあ、赤木」 「ん?」 「ここで、お前と……やりたくなってきた」 語尾は小さく掠れていたが、それは意味を持って赤木の耳に届いた。 矢木から欲しがるなんて滅多にないことだった。しかもこれほどストレートに言われて驚く。 普段はこちらから誘わないとその気にならない。それだけひねくれているという証拠だが。 酔っ払いの相手を好んでする趣味はないが、たまになら悪くないと思った。 「いいよ、矢木さん……しよう」 赤く熱くなっている矢木の耳に囁いて、身を起こしかけた途端に妙な予感がした。 次に聞こえてきたのは言葉ではなく、憎らしいほど穏やかな寝息だった。 まだ抱き締められたままなので、まともに身動きが取れない。 ……やはり、酔った相手に一瞬でも本気になったのは間違っていたのだろうか。 「白痴って言うか、本物の馬鹿じゃないの?」 ため息まじりに呟きながらも赤木は、矢木から離れようとはしなかった。 この腕に包まれていればとりあえず、少しの寒さならしのぐことはできそうだから。 |