Cigarette



とてつもなく悪い予感がして、矢木は背後を振り返った。
しかしそこには見慣れた光景が広がるばかりで、特に変わったことは何もない。
深夜でも途切れることのない人波、車のクラクション、酔っ払いの騒ぎ声。
そういった街の雑音に紛れながら、再び歩き出す。
……あれから6年だ。
呼び出された場末の雀荘で起こった、信じ難い出来事。そこで自分は、それまで積み上げてきたものを全て失った。 代打ちとしての名もプライドも、何もかも。
まるで転がり落ちるように次々と味わった屈辱、錯乱、そして破滅。まさに悪夢のような一夜だった。 例えこの先何年経っても忘れられないだろう。
そんな時、向こう側から歩いてきた男が矢木の肩にぶつかった。 すれ違いざまにぶつかることなど、これだけの人ごみでは大して珍しくもないが、 それは矢木が抱えていた苛立ちに火を点ける結果となった。

「おいこら、どこ見て歩いて……」

凄みながら男のほうへ視線を走らせた瞬間、言葉の続きを失った。
何よりも先に目についたのは、老人のような白い髪だった。 しかしまだ若さを感じさせる背格好や雰囲気に比べると、そのアンバランスさは異様としか言い表せない。
下を向いていた男がゆっくりと顔を上げ……そして、矢木と目が合った。

「っ……まさか、お前!」
「ああ……こんなところで会うなんてね。久しぶり、矢木さん」

矢木の名を吐き出したその唇の両端が、愉快そうに吊り上った。
確か13歳だったあの頃と比べると背は高くなり、肩幅も広くなっている。
それでも静かな狂気を秘めた目は、少しも変わっていない。うまく感情を抑えた、諭すような口調も。

―――『まるで白痴だな』
―――『信用するなよ、人を』

思わず後ずさりした矢木を見て、男は喉の奥で笑った。
6年振りに聞いたその笑いは、あの時の記憶をますます鮮明に呼び覚ます。

「赤木!」

耳障りだった街の雑音が全て消えた。赤木の声以外は、何も聞こえない。

「まだ生きてたのか。あの後、竜崎達に消されてるかと思ってた」
「あいにく、俺は悪運が強いんでな……お前ほどじゃないが」
「それはどうも」

赤木はそう言うと突然、矢木の襟元へ顔を近づけた。全く予想すらしていなかったその行動に、矢木は動揺して言葉が出ない。

「やっぱり、あの時と同じだ」
「……何が」
「俺との勝負の前から、ずっとあんたが吸っていた煙草の匂い」

余裕のある態度が、勘に触る。
やがて身を離した赤木の顔へ狙いをつけて、矢木は固めた拳を勢い良く振り下ろした。
しかし赤木は、それを手のひらで軽々と受け止める。温度の低い手が矢木の拳を包み、強く握り込んだ。 激痛が走り、矢木は苦しげに眉を寄せる。6年経って成長したとはいえ、矢木から見れば赤木はまだ子供だ……それなのに。
未だに自分は、赤木を恐れている。
むき出しの怒りより、静かな狂気のほうが恐ろしい。赤木が持つのはまさしく後者のほうだ。

「目が曇っているのも、相変わらずだ」
「くそっ……!」
「お互い生きていたら、また会えるかもな」

矢木の拳を解放すると、赤木は背を向けて歩き出す。
夜の雑踏へ、溶けるように消えて行く。
もちろん矢木は、その後を追うつもりはない。これ以上あの男には関わらないほうが利口だと、自分の中の勘が告げているのだ。
そしてもう、この人生の中で2度と交わってはいけない存在だと。




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2005/10/30
2005/12/25 一部修正