薄闇の理性 真っ昼間の映画館は人の気配が薄く、俺達以外はほとんど誰も居ないと言ってもいい。 遠く離れた席に背広を着た男がひとりで座っているが、こちらには気付いていないようだ。 昼から赤木と街へ出て、適当に喋りながら歩いていたら急に雨が降ってきた。 通り雨であることを願ったが、雨は時間が経つにつれてますますひどくなるばかりだった。 俺も赤木も、傘なんて持ってきていない。帰ろうにも、駅まではかなりの距離がある。 せめて数時間くらい雨宿りできる場所ならどこでも構わなかった。 そう思って駆け込んだのはとんでもなく寂れた映画館で、何の映画をやっているのかすらろくに確認しないまま2人分の金を払い、席に座った。 これから上映するのが胸焼けするほど甘ったるい恋愛映画だろうが何だろうが、俺達に選択の余地は残されていない。 雨に濡れた服が肌に張り付いて、気持ち悪かった。 やがて館内が暗くなり、スクリーンに映像が映し出される。 とってつけたようなしらじらしい展開のあと、玄関先で男女が絡み始めた。 最初に出てきた、淫乱人妻がどうのこうのというタイトルからして怪しいとは思っていたが、これは成人向けの映画だった。 そんなことをあれこれ考えているうちに、半裸の女優が大げさに喘ぎ出したので目のやり場に困った。 ひとりで観るならまだしも、よりによってこいつを連れている時に……。 隣の赤木は低く笑いながら、俺の耳元に顔を近づけてきた。 「矢木さんもしかして、これ観たかったの?」 「さっきも言っただろ、偶然だって」 「さあ、どうだか」 「……絶対信じてねえな」 赤木は何も言わなかった。こうして話でもしてれば気が紛れて助かるのに。 もう一言くらい、と思って横を向くと赤木は自分の唇に指先を当てて見せた。 上映中なんだし、お前の言いたいことは分かってるよ。でも。 館内に喘ぎ声や息遣いが大きく響くたびに、頭がくらくらしてどうにかなりそうだ。 動揺する俺とは逆に、赤木は平然とスクリーンに目を向けていた。薄闇の中、どこか冷めた表情で。 「どう見ても、わざとらしい作り物だな」 「そんなの当たり前だ、映画なんだから」 「こんなものに興奮する奴の気持ちが理解できないんだけど」 「作り物だと分かってて、興奮する奴も居るのさ」 「あんたとか?」 がくっと身体の力が抜ける。真っ向から否定できないのが辛かった。 「……ねえ、矢木さん」 「何だよ」 「寒くなってきた」 そう言う赤木は、小刻みに震えていた。髪や服は濡れたままだし、無理もない。 服を貸してやろうかと思ったが、あいにく俺の上着も雨を吸って濡れていた。 「こっちに来い、赤木」 周囲に響かないように小声で囁くと、赤木は席を立って素直に従う。 俺の座席に赤木が片膝を乗せると、そこから微かにきしむ音がした。 互いに何も言わないまま抱き合う。まさかここで脱ぐわけにはいかないので服越しだったが、身体が密着すると乱れた心臓の音が赤木に伝わってしまいそうだった。 重なる唇と触れ合う舌の感触に身も心も支配されて、いかがわしい映画の音声が遠くなった。 広い空間、そして薄闇というシチュエーションに乗じて、このまま赤木と……なんて無謀なことを思ってしまった。 どうしてだろう、本当にどうかしている。 何年も前、初めて出会った夜に酷い目に遭わされたことが、最近はどうでもよくなる。 思えば俺を踏みにじったのも、そして立ち直らせたのも赤木だった。 赤木が欲しくて我慢できなくなる気持ちを、強く抱き締めることで紛らわせる。 そうすると赤木も同じように、背中にまわしている腕に力を込めてくるから、更に欲望を煽られてしまう。 これ以上こんな状態が続けば、何事もなかったように映画館を出られなくなる。 「さっき、震えてただろ。大丈夫か?」 「ああ、でも……もう少し、このままで」 「赤木……」 「あんたとこうしてるの、あたたかくて気持ちいい」 それまでは汚いことを考えていた自分が、急に恥ずかしくなった。 必死で抑えていて良かったと思う。1歩間違えていたら、手を出しているところだった。 赤木だっていつも、やりたがっているわけでもないし。 落ち着いた大人になって、こいつのことを理解してやりたい。辛い目には遭わせたくない。 「もしここが映画館じゃなかったら、俺のこと……」 甘くささやくような言葉の続きを聞くのが怖くなって、赤木の唇をキスでふさいだ。 せっかく保っている理性が壊れないように。 |