記憶の断片 暇つぶしに流し読みしていた新聞の下部、太い黒枠で囲まれた中に書かれていた名前。 それを見つけた途端に矢木は手元にあったコップを倒してしまい、半分ほど入っていた水が新聞に広がっていった。 『赤木しげる逝去に伴い左記の通り告別式を』その部分だけ何度も読み返して確かめた。 70年以上も歳を重ねたせいで視力が落ちてきたので、見間違いだと思い込もうとしたが無理だった。 しかし赤木の名前はそれほど珍しく変わったものではない。同姓同名の他人である可能性も有り得る。 まさかあの男が俺より先に逝くなんて、と信じがたい気持ちで立ち上がり、告別式が行われるという岩手県の寺に電話をかけた。 電話に出た住職に覚えている限りの赤木の情報を伝え、返ってきた答えを聞いて気が遠くなった。逝ったのは最初の予感通り、まさしく遠い昔に矢木が 雀荘でサシ馬勝負をしたあの赤木しげるだったのだ。 今日はこの件に関する問い合わせが延々と来ていて、住職は朝から対応に追われていたらしい。 きっと、載っていた赤木の名前を見て同じように気になって電話をかけてきた者が多数居るのだろう。 悪い予感が的中してしまったことに脱力しながら、矢木は住職に礼を言って電話を切った。 勝負後に再会してしばらく共に過ごした後、ある日突然赤木が矢木の前から姿を消してもう数十年にもなるが、その存在は今でも忘れていない。 というより忘れられない。若い頃に麻雀の腕で金を稼ぐようになってから色々な年齢や立場の人間に出会ってきたが、 赤木ほど記憶に強い印象を残した者はいなかった。代打ちとしてのプライドを踏みにじったのも、男だと分かっていながらも矢木が欲情したのも、 全て赤木が初めてだった。負けた後で生まれた嫉妬と恨みが入り混じった感情はやがて、愛しさに変わっていった。今思うと気恥ずかしくなるくらいの。 『矢木さん、あんたって本当に面白い人だよね。笑えるよ』 『俺は芸人じゃねえんだ、そんなに面白がるな』 『真面目な話くらいは、ちゃんと聞いてやるからさ』 『お前なあ……』 ずっと奥に残っていた記憶の断片がよみがえり、胸が締め付けられる。赤木は本当にもうこの世から消えてしまったのだろうか。 もしかするとこちらのことはもう覚えていないかもしれないが、それは仕方のないことだ。あれから何十年も経っていて、数え切れないほどの人物に出会ってきたのだろうから。 新聞に書かれている赤木の名前の部分が、少しずつこぼれ落ちる矢木の涙を吸って黒ずんでいく。13の頃は親しい友人さえ作らずに荒んだ日々を過ごして いた赤木。別れてから連絡ひとつ寄越さなくなったが、相変わらず麻雀漬けの生活を送っていたに違いない。 卓袱台に置いている皺だらけの手。極道の人間や賭博から離れた平凡な第2の人生は、あれほど馴染んでいた牌の感触すら忘れさせていた。 |