遭遇



アパートの階段を上りきったところで、見知らぬ男の姿が見えた。
ドアに背を預けて立っていて、気持ち良さそうに煙草を吸っている。
それにしてもすごい服装だ。スーツの下に着ているとんでもなく派手な柄シャツは、とても堅気の人間とは思えない。
染めているようには見えない白い髪。雰囲気からして、かなり年上であることは明らかだ。
男はこちらの存在に気付くと、少しだけ表情を緩めて歩み寄ってきた。

「やっぱりここだったか。俺の勘も、まだ捨てたもんじゃねえな」
「……あの、うちに何の御用で?」

行きつけの飲み屋で酔ってる時に意気投合でもしたか、それとも……。
しかし確信は無い。曖昧な気持ちで接しても、決して良い結果にはならないのだ。
悪質なセールスマンの可能性もある。おかしなものを売りつけてくるつもりか。
隠し切れない警戒心を露わにしていると、男は低く笑った。

「これでもまだ分からねえか?」

男は矢木の耳元に唇を寄せ、意味深にかすれた声で囁いた。

「まるで白痴だな、矢木さん」

6年前の夜、あの雀荘に居た人間しか聞いていないはずの言葉を。何故知っている?
手元に並んだ牌を薄い笑みと共に倒す少年の姿が、記憶の底から恐ろしいほど鮮やかによみがえる。
赤木、と。すでに呼び慣れたその名前が口から出そうになり、慌てて止めた。
まさか、いや、そんなことが……有り得ないはずだ、多分。
矢木が知っている赤木は今、19歳のはずで。こんなに歳を取っているわけがない。 朝に1度別れてから数時間しか経っていないのに。 海の底で土産に貰った箱を開けると一瞬で老人になってしまった、という昔話でもあるまいし。

「寒いな、ここは。とりあえず中に入れてもらおうか」
「……えっ?」
「持ってるんだろ、鍵」

この男が持つ見えない力に操られるように、矢木は鍵を取り出して玄関のドアを開けた。


***


畳に腰を下ろし、新しい煙草を咥えた男と目が合う。
直後、手持ちのマッチを擦ってその煙草の先に火をつけた。 こうしているとまるで、この男の従者にでもなったような気分だった。
頼まれたわけでも命じられたわけでもない。ただ、そうしなければならない気がしたのだ。
ゆったりと空気の中を舞い上がる煙を、ただ黙ったまま見上げる。
怪しいと思いながらも結局、部屋に入れてしまった。

「俺は一応、赤木しげるって奴とここで暮らしてるんですが」
「ああ、昔は確かにそういうこともあったな」
「自分のことのように言わないでください」
「赤木しげるならここに居るじゃねえか、あんたの目の前に」
「……いい加減、ふざけるのはやめてもらえますかね」

この男のペースに乗せられていることが不満で不安で仕方なく、どこからか苛立ちが生まれてきて止められない。

「そこまで疑うなら、もっといい方法で証明してやるよ」
「どうやって」
「あんたが昔の俺にしたこと、そっくりそのまま真似てみせようか」

男はそう言うと、灰皿に煙草の先を押し付けた。
互いの息遣いが分かるほどの至近距離まで、男の顔が近づいてくる。
相手は初対面の人間であるはずなのに、嫌悪は全く感じなかった。それが不思議でたまらない。
もしかするとこれは全て夢で、男は未来から迷い込んできた数十年後の赤木かもしれないと本気で思った。 どんなに有り得ないことでも、夢だと思えば多少強引にでも自分を納得させられる。
そうしなければ、頭が変になりそうだった。 時間が経つにつれて、明らかに自分よりも年上であるこの男が、どうしても赤木にしか見えなくなってくるからだ。
本当は、あの白痴発言で全て認めるべきなのだろうが。

「キスの仕方から服の脱がせ方まで、俺はよく覚えているぜ……矢木さん」

その目の奥に宿るものは、矢木がよく知っている赤木しげると似ていた。
似ているどころか全く同じと言っても、過言ではない。そこから視線を逸らせないまま射抜かれていると、嫌でもそんな気になった。

「ち、ちょっと待ってくれ!」

急に我に返った矢木は、自分に覆い被さってくる男の肩を両手で押し返した。
いくらなんでもこの展開は非常にまずい。もしこれで他の男なら容赦なく、例え殴ってでも抵抗して逃げ出せたはずだ。
しかし相手が悪い。赤木に似ている、もしかしたら未来の赤木かもしれないこの男が相手では、どんなに抵抗しても丸め込まれてしまう気がした。 そして結局は最後まで……という生々しい想像をして青くなった。
無粋なところも相変わらずだな、と苦笑する男を真っ直ぐに見つめながら再び口を開く。

「もし本当に赤木なら……教えてくれ。今のお前が生きている時代に、まだ俺はそばに居るのか? そうじゃないなら、お前とはどういうふうに別れたんだ」

赤木とは20歳も離れている。普通に考えれば、先に死ぬのはおそらく矢木のほうだろう。
やはり死に別れたのか、それともいつか赤木が姿を消してしまうのか。 聞くのは少し怖かったが、未来を知る者を目の前にすれば止められない、残酷な好奇心だ。

「教えてやるのは簡単だが……いいのか?」
「いいのか、って?」
「変えられない未来を知って、それでもしっかり生きられる強さが、あんたにはあるのかって話だ」

もし赤木と死に別れたのなら、矢木は自分の寿命……つまりいつ死ぬのかを今の時点で具体的に知ってしまうということだ。 よく考えてみればそんなことは知らないほうが、希望を持って生きていけるのではないか。 逆にあと何年で死ぬと分かれば、どうせもうすぐ人生が終わるのだからと毎日を投げやりに過ごしてしまいそうだ。

「俺が知っている限りでは、あんたはそれほど強い人間でもないだろう。傲慢で思い込みが激しい、ひとつ間違えれば空回りばかりのひねくれ者」

ためらいの無い物言い、見事としか言えない観察眼。
ああ、こいつは赤木だ。曖昧な予感はもう、疑いようもない事実となる。

「未来に居るはずのお前が、どうしてここに来たんだ?」
「まあ……あえて言うなら」

乱れた襟元を直しながら、男は立ち上がる。

「俺が、俺のままでいられるうちに、もう1度あんたに会いたくてな」

こちらに向けられたその背は、気のせいかどこか脆いものを感じた。
男が言っていた『俺が、俺のままでいられるうちに』という言葉の意味はいくら考えても分からなかった。
それでも、この男が居る時代にはもう矢木は生きていないのだと何となく思った。
再び顔を上げた時、男はいつの間にか音も無く姿を消していた。
ドアを開け、アパートの階段を駆け降りる。そして辺りを見回しても、男の姿は無かった。
まさしく幻のように、消えてしまった。
しかしあの男は確かに存在していた。ドアの前で、部屋の中で、言葉を交わしたのだから。
アパートの階段を上りきったところで、見慣れた男の姿が見えた。
男はドアに背を預けて立っていて、気持ち良さそうに煙草を吸っている。
そこに居たのは現在の、19歳の赤木だった。

「どうしたの矢木さん、そんなところに突っ立って」
「……赤木、お前今まで何やってたんだ」
「ちょっと用があって、今帰ってきたばかりだけど」

自分でもよく分からない衝動に突き動かされるまま、矢木は赤木を抱き締めた。

「あんたから触れてくるなんて珍しいね、何かあったの?」

その声も、背にまわされる腕も、ひどく懐かしく感じる。
せめて赤木は、赤木だけは。
きっと自分は立ち会えないかもしれないが、いつか迎えるだろうその人生を閉じる瞬間は、孤独で冷たいものではないことを矢木はひたすら願った。




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2006/5/28