夢の続き 頼りない電灯の明かりだけが、牌が乱雑に散った雀卓を照らしている。 暗く、寂れた感じの雀荘だった。 壁や窓は薄汚れていて、管理の手はあまり行き届いていないようだ。 2度と足を踏み入れることはないと思っていたこの場所で、どうしろと言うのか。 もう、牌に触れることすらできないのに。 ドアのほうを向いた時、今まで誰も居なかったはずの背後に何者かの気配を感じた。 ありがちな怪談話のようで気味が悪かったが、何故か確かめずにはいられない。 息を飲み込んだ後にゆっくりと振り向く。するとそこには、予感通り人が居た。椅子に腰掛け、雀卓に頬杖をつきながら こちらを見ている。矢木はその人物の名前を知っていた。姿や声も心の奥底まで刻みつき、一時も離れたことなどない。 小柄な身体と、半袖の白いシャツ。顔立ちはまだ幼いが、その目は戦後の混乱期や代打ちとして裏社会を生き抜いた自分でも、 想像すらつかないものを映してきたかのような。 とにかく全てが印象的だった。 「久しぶりだね、矢木さん」 手のひらに、嫌な汗を感じた。 過ぎ去ったはずの悪夢がよみがえり、冷静さが削り取られていく。 あれから6年も経っているのに、この少年は当時のままの姿でここに居る。 もしかするとこれは、恨みや恐れが生み出した幻覚かもしれない。 そう思っていたが、卓の上に伏せられていた牌のひとつを摘み上げたのを見て、 少年が幻の類ではないことを知った。生身の実体がなければ物には触れないはずだ。 その牌が、こちらへ向けて放られた。無意識に受け止めてしまった瞬間、矢木の全身から血の気が引いていく。 6年前、サシ馬相手のロン牌だとは知らずに自信満々に切ったドラの4索だった。 それ以降、選択を誤った自分が転げ落ちるように進んだのは、まさに破滅への道。 指が震えて、何も考えられなくなる。牌を床に落としてしまったが、とても拾う気にはなれなかった。 「それ、やっぱり覚えてたんだ」 少年は楽しげにそう言うと、椅子から立ち上がって近づいてきた。 目の前で足を止めると、身を屈めて矢木が落とした牌を拾う。 それを手の中へ捻じ込まれ、強引に握らされる。少年が上から両手で包むように押さえているため、 いくら嫌だと思っても手を開くことができない。 「俺とあんたの、思い出の牌だからね」 口元に浮かべた少年の笑みが深くなると共に、矢木に牌を握らせる力も強くなった。 いっそのこと、このまま死んでしまえればどんなに楽か。傷を抉られているような痛みと恐ろしさで、気が狂いそうだ。 もうやめてくれ、と必死で喉からしぼり出した言葉も実らず。隠し切れない恐怖心を糧に、少年は容赦なく迫ってくる。 今にも崩れそうな、心の奥底へと。 やがて限界まで追い詰められた矢木の悲痛な叫びが、雀荘の空気を裂いた。 気が付くと、布団の中に居た。 ここは雀荘ではなく、いつものアパートの部屋であることに安心する。 やはりあれは夢だった。自分以外は誰も居ないはずのところから声が聞こえてくるなんて、現実離れもいいところだ。 カーテンのない窓からは真っ暗な空と、淡い光を放つ月が見えた。 まだ眠る時間は充分にある。あんな恐ろしい夢は早く忘れよう。 「……矢木さん」 すぐそばから聞こえてきた声に、矢木は閉じかけた目を再び開く。 いくら何でも空耳だと思い黙っていると、被っていた布団を全て引っ張られる。裸の上半身が空気に触れ、寒気を覚えた。 状況についていけないまま布団を取り戻そうとして身を起こすと、隣にはいつの間にか赤木が寝ていた。 夕方あたりに突然押しかけてきた挙句、夜になっても帰ろうとしなかった。仕方ないので布団を敷いてひとりで先に寝たのが 間違いだった。 せめて赤木が飽きて出て行くのを、しっかり見届けてから寝れば良かったと後悔する。 「お前、寮に帰ったんじゃなかったのか!?」 「え、ああ。気が変わった」 「変わるなって!」 「とにかくそれはいいから、水くれよ」 「はあっ、いきなり何言ってんだ?」 「あんたのほうが近いだろ」 赤木は仰向けに寝転がったまま、矢木の近くにある台所を指さした。 水を汲んで持ってこいと言っているらしい。それは分かるが、何故そんな使いっ走りのような扱いを受けなければならないのか。 しかしこちらを見ている赤木の目が獲物を狙う獣そのものになっていて、悪い予感がしたので渋々ながらも台所に向かった。 冷たい水で満たしたコップを赤木に手渡すと、深く息をついて布団に潜り込んだ。 今度こそ何が何でも朝まで寝かせてもらう。 心地よい眠りの世界へ誘われる直前、耳元で微かに息遣いを感じた。 明らかに赤木の仕業だ。うんざりしながら寝返りを打ち、小声で訴えかける。 「あのなあ……俺は寝たいんだ、邪魔するな」 「無防備に、背中向けて寝てるからだよ」 「わけの分かんねえこと言っ……」 言いたかったことは赤木の唇で遮られ、最後まで形にはならなかった。 水を飲んだばかりの冷たい舌の感触に目眩がする。 少し前に見た夢の影響もあって矢木はただ困惑し、怯えていた。 巧みに迫る赤木を相手に、開き直って欲情することはできない。例えそれが、1番楽な手段だとしても。 「俺に何かされないように、ちゃんと見張ってなきゃ」 「つまり、お前が寝るまで起きてろってことか」 「まあ、そういうこと……」 それから何分、何十分経っても赤木は眠ることなく、常にこちらの様子を眺めている。 薄闇の中で、油断ならない相手と見つめあうという羽目になってしまった。 背を向けて逃げることは許されない。とても朝まで気を抜けそうにはなかった。 |