視線と塩分





誰かに見張られているような気がする。
そんなことを思い始めたのはつい最近のことで、外に出る度に誰かの視線を感じるのだ。 昨日も赤木と銭湯に向かう途中で嫌な感じがして何度も振り返ったが、そこには誰も居なかった。 最近はずっとそのことばかり考えている。
朝食の最中、卓袱台に置いてある瓶に入った液体をコップに注ぐと、矢木は迷うことなくそれを口にした。

「矢木さん、それ醤油」

向かい側から赤木の冷静な声が聞こえてくるのと、矢木がコップに中身を吹き出したのはほぼ同時だった。 少し飲んでしまうまで気付かないとは、本当にどうかしている。もはや重症どころの騒ぎではない。
そういえば戦時中、兵役を逃れるために醤油を大量に飲んで体調を悪化させた者が居たという噂を聞いたことがある。しかし戦争が終わって13年も経った今、 そのような行為をする必要もない。自分もそれを実行していれば、配属先で恐怖と混乱の地獄絵図を見なくて済んだかもしれないと一瞬だけ思った。 先ほどのようにすぐ吹き出してしまうようでは無理だろうが。

「そんなに塩分が恋しかったの?」
「んなわけねえだろ!」

鋭く突っ込む矢木に、赤木は笑いながら箸を動かす。焼き魚の細かい骨を器用に取り除くと、醤油を垂らして口に運んだ。茶碗の中に汚く飯粒を残すことなく、 赤木はいつも出されたものを綺麗に食べる。その歳でそこまで徹底しているとは、よほど親の躾が厳しかったに違いない。

「ところで矢木さん、最近おかしいよね」
「……そうか?」
「外に出ると、いつも異様に警戒してるじゃない」

行動に現れている不安は、赤木にも気付かれていた。子供とはいえ大人顔負けの鋭さを持つ赤木に隠し事は通用しないので、素直に打ち明けた。

「過去に捨てた女が、矢木さんを恨んで刺そうとしてるのかもね」
「捨てたんじゃねえ、捨てられたんだ……借金背負って、俺の羽振りが悪くなったから」

そこまで呟いて我に返る。これではお前のせいで女に振られた、と赤木に言っているようなものだ。相手が中学生だろうが初心者だろうが矢木が負けたのは事実で、 今更恨み事を吐き出すのは男らしくない。

「へえ、そんな理由で振られたんだ。相手の女は矢木さんじゃなくて、あんたが持っている金のほうに夢中だったってことか」

いくら何でも、もう少し思いやりのある言い方をしてほしい。そう訴えても赤木が素直に受け入れるような奴ではないことを、矢木は嫌というほど知っている。

「俺はあんたがこんな狭いアパートに住んでいようが、冬でも薄っぺらい安物の布団で寝ていようが、別に気にしないけどね」

そう言って赤木は立ち上がり、自分で使った食器をまとめて台所に運んだ。
まだ川田組で代打ちをしていた頃は、今よりも大きな家に住んで、いい車にも乗っていた。金は腐るほど持っており、仕事のない夜は街に出て遊び回っていた。
当時付き合っていたのは服も化粧も派手な水商売の女で、いつも結婚を迫ってくるような重い女ではなく、若い頃の矢木にとってはちょうど良い相手だった。 たまに高価な装飾品を買ってやると大喜びする様子を見て、どこか誇らしげな気分になっていた。しかし負債を抱えてそれができなくなった途端に、あっけなく縁が切れたわけだ。
あれは本当の恋愛だったのかと改めて疑問が生まれた。こちらが都合の良い相手だと思っていたのと同じように、向こうもそれなりの軽い付き合いでしかなかったのかもしれない。
そろそろ身を固めてもおかしくない年齢になった今、1番近くに居るのは女ではなく約20年も歳の離れた中学生の男で、以前までは激しく恨んでいたほどの因縁の相手だ。 本当にこのままの生活でいいのかと考える時もあるが、うっかり触れてしまった未成熟の身体が恐ろしく心地良かったので、愚かなことにずるずるとここまで来てしまった。


***


その夜、矢木は久し振りに夢を見た。道端で視線を感じて振り向いた途端に柄の悪い男達に襲われ、容赦なく殴られ蹴られた挙句に両手を潰されるという悲惨なものだった。
現実でも頻繁に感じる視線は川田組の連中で、今になって制裁に乗りこんできたのかと思うと冷や汗が出た。
赤木に敗れた時は負け分を竜崎と折半することで、指や腕を取られることは免れた。赤木への脅し文句として腕を取るだのと言ったものの、いざ自分が取られる立場になると、さすがに冷静ではいられない。
代打ちを辞めた今、あの組はどうなっているのだろう。矢木の後で赤木と勝負した代打ちが破れたのならば、今頃血眼になって赤木を探しているかもしれない。自らの組で飼い慣らすために。 赤木が矢木のアパートに入り浸っているのを、連中は気づいているだろうか。

***


「分かったよ、あんたを見ている奴の正体」

数日後の夕方、矢木のアパートに帰ってきた赤木が鞄を置くとそんなことを言ってきた。
あの夢を見た後はますます恐ろしくなり、矢木はもう振り向くことすら出来なくなっている。
昔は自分に怖いものなどないと本気で思っていたが、代打ちを辞めて麻雀と縁を切ってからは、いつの間にかヤクザや制裁に対して臆病になっていた。それとも以前の自分の感覚が異常だっただけなのか。

「まさかお前、そいつに声かけて調べたんじゃねえだろうな」
「まさかも何も、あんたの様子がおかしくて見ていられなかったからさ。矢木さんのアパートの近くをうろついてたのを捕まえて、あんた誰って聞いた」

赤木の度胸の良さには初対面の夜から気付いていたが、見知らぬ怪しげな人間に声をかけるなど普通はためらう。

「筋肉質の男なのに女みたいな喋り方をしててさ、夜の街で矢木さんを見かけてから惚れたんだって」
「えっ……」

それはもしかしてゲイというやつではないか。しかし男なら誰でもいいというわけではない自分にとっては、そういう関係になる男は赤木だけで充分だ。
今になって川田組が制裁に来たと思い込んでいたことが、急に馬鹿らしくなった。
あっちのほうにも人気者で良かったね矢木さん、と言って赤木はからかうように笑う。矢木にとっては笑いごとではないので、赤木の報告に今までとは違う種類の恐怖を感じた。




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2009/1/25