朝の散歩道 ドアを叩く音が聞こえる。 ノックなんて可愛いものじゃない、握り拳で容赦なく何度も叩きつけるような音だった。 強制的に眠りから現実に引き戻された矢木は布団の中で、低い呻き声を上げながら寝返りを打つ。 こんなに朝早くに訪ねてくるなんて、どうかしている。ドアの向こうに居るのは、あの守銭奴のような大家だろうか。 実は数ヶ月もアパートの家賃を滞納しているので、痺れを切らして取り立てに来たのかもしれない。 終戦前から存在していそうなこの古びたアパートの家賃は、普通に働いていれば余裕で払える金額だ。 しかし前にやっていた、ヤクザ絡みの仕事を隠したままで雇ってくれるまともな会社があるはずもなく (以前の面接でうっかり口を滑らせ、色々と突っ込まれて散々な目に遭った)、 仕方がないので、職歴は問われないが収入の不安定な仕事を転々としていくしかなかった。 そんな状態が今でも続いている。 それにしてもドアの向こうの人間は相当しつこい。これ以上、知らない振りを決め込んでいるわけにはいかない。 寝起きのだるい身体を起こし、玄関に向かった。叩く音はまだ続いている。 誰かは知らないが近所の目もあるので、早くやめさせなければ。 「さっきからうるせーよ、太鼓みてえにドンドン叩きやがって!!」 ドアを開けるなり、やけになって怒鳴りつける。開けた先に立っていたのは、地味な作業着のようなものを着た男だった。 帽子を目深にかぶっているせいで、顔までは見えない。 「……誰だ?」 「まだ寝ぼけてるのかい、矢木さん」 その男が帽子を取った瞬間、驚いて思わず声が出そうになった。 人の気配が全くない川沿いを、矢木と赤木は2人並んで歩く。黙っていると聞こえてくるのは川の水が延々と流れていく音や、 転がっている石や草が歩くたびに擦れる音だけだ。 夜が明け始めたばかりのこの時間、周囲を取り巻く何もかもが美しく清らかなものにも思えた。 あと数時間でいつも通り、排気ガスや雑音にまみれていくのだと分かっていても。 昔から夜型生活の矢木にとっては、ほとんど未知の世界だった。 「早く目が覚めちゃってさ、せっかくだから暇を潰そうかと思って」 「俺の都合はどこへ消えたんだ」 「キャタピラ野郎の都合なんて知らねえよ」 「だから、その呼び方はいい加減……」 「言われたくなかったら、あんなこと最初からしなきゃ良かったんだよ、な?」 「お前なあ、そのガキを見るような目はやめろって!」 かつての勝者と敗者という分かりやすい位置関係ゆえ、明らかに見下されている。 赤木は年齢に不釣合いな強い意志と冷静さに加え、相手の精神を蝕む恐ろしい策略で、当時はプロの代打ちだった矢木を破った。 あれからどんな修羅場をくぐり抜けてきたのだろう。良くも悪くも川田組が放っておくわけがないので、様々なことに巻き込まれたに 違いない。 「そういや赤木、その格好は」 「ああこれ、職場の制服だよ。矢木さんは見るの初めてだよな」 「仕事はうまくいってるのか」 「まあ、それなりに。仕事決まってないなら、うちに来るかい?」 「そうなったら俺はお前の後輩ってことか」 「先輩として可愛がってやるぜ」 「いらねえって、気色悪い」 あんなに恐れていた赤木と、こんなふうに軽口を叩き合うようになるとは。 しかし油断できない。今までの出来事からして、何か裏がある気がする。そもそもあの時の勝負で敗れてしまったのは、 赤木をただの子供だと思って甘く見たのが最大の原因だった。 こちらが少しでも気を抜いたら最後、骨のかけらも残さないくらい全てを粉々に打ち砕かれて、そして……。 「じゃあ俺、そろそろ戻るわ」 「はあ!? もう帰るのかよ」 あっさりとした調子で紡がれた赤木の言葉に、矢木は拍子抜けしてしまった。 「何だ矢木さん、もっと俺と一緒に居たい?」 「そうじゃねえよ、朝っぱらから人を叩き起こしておいて、30分も経たないうちに消えるなんておかしいだろ」 「これでいいんだよ。時間が長くても短くても、俺が楽しめれば」 「お前、本当に自分勝手な奴だな」 「知っててついてきたくせに」 いつの間にか正面にまわり込んできた赤木が、そう言って不敵な笑みを浮かべる。 早朝に何の連絡もなしで家まで押しかけられて、本来なら怒って追い返してもバチは当たらない状況だったにも関わらず、 こうして誘われるまま赤木の暇潰しに付き合うことになってしまった。 口ではいくら強気を装っていても結局、赤木には勝てない。 「あんたが寂しくなった頃に、また来てやるよ」 「一生有り得ねえから、もう来るな!」 「はいはい」 「いいか、絶対来るなよ!」 「はいはーい」 真面目に聞けよ、と言いたかったが。最後まで口には出せなかった。 意地になって吐き出した言葉だけでは、赤木を従わせることはできないのだ。 |