猫耳事件 夢の中で猫の鳴き声を聞いて、矢木は目が覚めた。 いつもの調子で布団から起き上がり、用を足しに行く途中で鏡の前を通る。 そこに映った見慣れているはずの自身の姿に違和感を覚え、改めて顔を近づけて確認した。 直後、だるい眠気も吹き飛ぶほどの衝撃に腰を抜かしそうになった。 「うそだろ……これ、夢じゃねえのかよ?」 寝癖のついた頭に、黒い猫の耳が生えている。 何かの見間違いだと思って思い切り引っ張ってみると激痛が走った。 それはまるで手足と同じ、身体の一部のように頭にくっついていた。 こんな姿を赤木に見られたら何を言われるか分からない。 どこかに頭を隠せるものはないかと辺りを見回していた時、背後から肩を叩かれた。 振り返ると、赤木が立っていた。着替えを終え、あとは朝食を取るだけという完璧な姿で。 赤木は矢木の異変に気付いたようだが、それでも落ち着いている。 一緒に暮らしている男に突然猫の耳が生えたのだから、少しくらいは驚いてもおかしくはないはずだ。 「どうしたのその猫耳、仮装にしては中途半端だけど」 「呑気なこと言いやがって、もはや仮装ってレベルじゃねえぞ!」 動揺のあまり意味不明なことを口走った後、矢木は赤木の頭を両手であちこち探るように触れた。 もし昨日の夜に悪いものを食べてこうなったのなら、同じものを食べた赤木にも異変が起きていると思った。 しかしいくら探しても猫の耳は見つからず、絶望的な気分になった。 決して恨まれるようなことをした覚えはないが、これは猫の呪いに違いない。 頭を触られ続けている赤木は愉快そうに口の片端を上げると、 「いくら猫だからって朝から発情するなよ、矢木さん」 「してねえよ馬鹿野郎!」 俺は猫なんかじゃない、と心の中で叫びながら矢木は部屋の隅へ逃げた。 膝を抱えて俯き、心を静かにして落ち着こうとしたが無理だった。 こんなふざけた格好では1歩も外へ出られない。 赤木は冷やかすばかりで相談相手にもならず、もしかするとこのまま完全に猫になってしまうのだろうか。 「心配しなくても、あんたが猫になったら餌くらいやるよ。気が向いたらね」 「気が向いたらって何だ! お前の気まぐれひとつで俺、餓死しちまうだろうが!」 「あ、尻尾まで生えてる」 「えっ!?」 「何焦ってるの、冗談だよ」 猫の耳が生えてきたせいで赤木に弄ばれ、6年ぶりに激しい屈辱を味わった。 混乱する頭を抱えていた両手を見つめた。イカサマの練習を数万回も重ねてきたそれが、いつか猫の小さな手になるのか。 突然矢木の正面にまわりこんできた赤木が、頭についている猫の耳に息を吹きかけてきた。 寒気とは違う何かが身体中を走り、思わず肩を竦ませた。 「感じた?」 「お前っ、こんな時にまでいい加減にしろ……!」 「どう強がっても、あんたはもうすぐ猫になるんだよ」 真顔で残酷なことを言われて、矢木は青ざめた。猫として赤木に飼われる日々に恐れを抱きながら。 部屋の隅で、黒い猫が横たわっている。 猫はもう2日ほど何も食べておらず、見た目で分かるほどやつれていた。 赤木が夕食の残りを皿に乗せて出しても、近寄ってくる気配すらない。 最初は全身の毛を逆立てて反抗していたが、もうそんな気力すら残っていないようだ。 完全な猫になった矢木とは、当然ながら言葉のやり取りができなくなってしまった。 ふたりで暮らしていた部屋が嘘のように静かだ。 派手なスーツを着こなしていた逞しい身体は、今では赤木よりも小さくて弱いものになった。 赤木の言葉に反応して怒ったり動揺したりする相手は、もう居ない。 「いい加減何か食べないと、そのうち死ぬよ」 そう言いながら猫のそばに腰を下ろす。猫の小さな耳が赤木の言葉を受けてかすかに反応を見せたが、それっきりだ。 この猫の中には、矢木の魂が宿っている。決して見知らぬ動物ではない。 何も食べないのは、猫になってしまった現実から立ち直れないからだろう。 「矢木さん……」 無意識に、猫に手を伸ばして触れる。悲しいほど痩せた身体を撫でながら深く息をついた。 |