Perfume 「矢木さん、あんた臭いよ」 日付が変わり始めた深夜、アパートに帰って上着を脱いでいるとそう言われた。 振り向いた先では壁に背を預けて座っている赤木が、矢木のほうを見ていた。どこか冷めた表情で。 赤木は普段から見た目だけで感情を読み取るのは難しい奴だが、今はあまり機嫌が良くなさそうだ。 臭い、と言われて驚いたが心当たりはある。久しぶりに飲み屋に行ってきたのだ。 居酒屋の類ではなく、綺麗な女が酒を注いでくれる店だ。 とはいえ店の女とは特別な関係でも何でもなく、その場で客として軽い話を交わして楽しく笑い合うだけ。 しかし今夜は話が弾んで、少し飲みすぎたようだ。こんな狭い部屋の中、強い酒の匂いで赤木が不快になっても当然だろう。 「悪いな、だいぶ酒臭いだろ。窓でも開けるか」 「酒の匂いなんて、別にどうでもいいよ」 赤木は呆れたような口調で言った後、身を起こしてこちらに近づいてくる。そして矢木の胸元や首筋などに顔を寄せ、眉をしかめた。 「女の香水って、どうしてこんなにくどい匂いなんだろうね」 そんな呟きを聞いて、赤木が臭いと言っていたものの正体が分かった。 飲みながらかなり至近距離で話していたせいで、店の女がつけていた香水の匂いが移ったのかもしれない。 しばらく夜道を歩いてきたので匂いは消えたと思っていたが、赤木はわずかな残り香まで鋭く感じ取った。いくら何でも敏感すぎる。 「もしあんたに女ができて、ここに連れてくるようになったら俺は出て行くよ」 「ちょっと待てよ、何でいきなりそんな話になってんだ」 「ただの例え話さ。あんたなら女のひとりやふたりは居そうだし」 香水の匂いひとつで、話が妙な方向に発展している気がした。今のところ付き合っている女は居ないし、赤木が出て行く理由はない。 改めて赤木との関係を考えてみれば、時々くちづけを交わしたり抱き合ったりはするものの、恋人とは言いにくい。 突然抱きついてきて背伸びをした赤木が、矢木に唇を重ねてきた。かすかに開いていた唇から入り込んできた赤木の舌が、まるで抉るように口の中を動き回る。 何とかその動きに応えるため、矢木も舌を絡ませた。くちづけは普段よりもずっと激しいものになり、頭の奥が痺れて何も考えられなくなった。 やがて離れていった赤木を抱き締めると、それを拒むように突き飛ばされてしまった。 あまりにも唐突な態度の変化について行けずに呆然とした。 「……俺、もう寝るから」 素っ気なく背を向けた赤木は自分の布団に潜り込む。その隣には矢木の分まで敷いてあった。寝ずに待っていてくれたのだろうか。 矢木も服を脱ぎ、電気を消して布団に入った。そして先ほどの出来事を思い返してみる。 もしかすると赤木は、矢木が女と飲んでいたことが気に入らなかったのか。嫉妬、という有り得ない言葉が浮かび、慌ててそれを頭から振り払う。 今夜の件で赤木の機嫌を損ねたのは明らかで、そのことばかり考えてしまいなかなか眠れない。 赤木はいつまでも同じ相手に執着するタイプではなさそうだ。矢木に飽きたら多分、他のところへあっさり行ってしまう。それを承知で今の曖昧な関係を続けているのだ。 心の容量が全て赤木への気持ちで埋まるのが怖かった。 余裕を残して少しでも優位に立っていたいから、いつか別れる時が辛くなるから、と言い聞かせながら1歩引いた状態で赤木に接している。 しかしそれも、いつまで保てるか分からない。余裕なんて昔の赤木に惨敗した時点でもう奪われている、別れの時を今から心配することはないという考えも確かにあった。 「俺さ、今はお前だけだよ」 ひとりごとのように口に出した矢木の呟きは、静かな薄闇の中に溶けて消えていった。 |