空虚な部屋 玄関のドアを開けると、そこに赤木は居なかった。 とりあえず安心したものの、複雑な気分を抱えたまま靴を脱いで中に入る。 もしかするとどこかに隠れていて、驚かせようとしているのかもしれないので注意深く様子を窺ってみたが、 そもそもこんな狭くて物をあまり置いていない部屋に、人ひとりでも隠れるところなどない。 こんな感じの毎日が、すでに1週間以上続いている。 最近は食事時に突然押しかけられたり、寝ている時に邪魔をされずに済んでいる。 なのでもっと喜ぶべきだが、どうにもすっきりしない。 思えば何ひとつ、優しい言葉をかけてやることもなかった。 悩まなくてもいいことで悩んでいる自分に戸惑いを覚えながら、何日も同じ場所に置きっ放しになっている新聞の束をかき集めて 持ち上げた時、小さなものが畳の上に落ちた。 拾い上げてみると、それはマッチ箱だった。 喫煙者の自分も当然持っているが、それとは違う。多分、赤木が置き忘れていった物に違いない。中にはまだ何本か残っていた。 赤木が勤めている工場へ届けてやろうかと思ったが、財布や腕時計ならまだしもただのマッチ箱だ。 その辺りの店で気軽に買える。 ここに置き忘れたことすら、大して気に留めないだろう。 強引に、そう割り切ってみたが。この部屋に久しぶりに訪れた沈黙はあまりにも重く、時計の針が進むたびにそれを痛いほど 思い知らされる。正直、かなり気分が悪い。 気が付くと、前に赤木が言っていたはずの沼田玩具の場所を記憶の隅から引き出そうとしていた。 翌日の昼過ぎ、見上げた空は外出日和と言わんばかりに快晴だった。 辿り着いた工場は、どこか古めかしい感じがした。絶え間なく動いている機械の音が、外にまで聞こえてくる。 本当にこんなところで、あの赤木が働いているのだろうか。想像し難いというか、未だに信じられない。 ただ立っていても仕方ないので敷地内へ足を踏み入れると、建物の陰に工員らしき男達が3人ほど座り込んでいた。 揃いも揃って柄の悪い男ばかりだが、矢木はためらいなく彼らに近づく。 こちらの存在に気付いて見上げてきた男達のうち2人の顔には、大げさな絆創膏やガーゼが張り付いている。 派手な喧嘩でもしたのか。 「誰だお前」 「部外者が、勝手に入ってくんじゃねえよ」 「用がないなら帰れっつーの」 頭の悪そうな物言いに眉をひそめる。 赤木と同年代に見えるが、存在感といい凄味といい全てにおいて比べ物にはならない。 長い間ヤクザに雇われて仕事をしてきた矢木にとっては、小さな子供がいきがっているようにしか思えなかった。 「赤木しげる、って奴がここで働いているだろ」 その名前を出した途端、男達は何故か一気に青ざめた。 「しっ、知らねえよ!」 「勘弁してくれ!」 男達はその場から一目散に逃げていく。 残された矢木は、呆然とその後ろ姿を見送るばかりだ。 「何だ、あいつら……」 もう関わりたくないといった、必死な様子だった。 赤木が何かしたのだろうか。敵意を向けてくる相手には徹底的に容赦しないあの男のことだ、連中の酷い怪我も多分……。 こうなったら他の工員を見つけて声をかけるしかない。 「赤木さんを探してるんですか?」 その声に振り返ると、背後には1人の青年が居た。 さっきの男達とは全く雰囲気が違い、控えめで気の弱そうな印象を受ける。 作業服を着ているので、ここの工員に違いない。 「赤木のこと、知ってるのか」 矢木の問いに青年は真っ直ぐな目をして、力強く頷いた。 「……辞めた?」 「はい、1週間前くらいに」 青年が口にした答えに驚いた。1週間前、赤木は川田組に呼び出され代打ちとして麻雀勝負をして以来、どこかへと姿を消したらしい。 その後の行方を尋ねても、分からないという。 こうなってしまっては、どうすることもできない。当てもないのに探せるわけもなく、赤木が再び現れるのを待つしかなかった。 「すみません、お役に立てなくて」 「いや、いいんだ。時間取らせて悪かったな」 背を預けていた壁から矢木が離れかけた時、青年は俯き加減だった顔を急に上げる。 「赤木さんは、俺の憧れなんです!」 「えっ?」 「喧嘩も麻雀も強くて、でもそれだけじゃなくて……赤木さんみたいになりたいって思ったんです。これからも、ずっと!」 目を輝かせて熱く語る様子は、まるで赤木に恋でもしているかのようだった。 赤木は相手によって随分、抱かせる印象の違う男だと思う。好意を寄せてくる人間には優しく、牙を向けてくる敵には容赦なく。 昔の矢木は後者だったので、当時13歳の赤木に麻雀を通して散々恐ろしい目に遭わされたのだが。 家の近くまで戻ってきた頃には、すでに辺りは薄暗くなっていた。 結局、会うどころか赤木は行方知れずで、手がかりすら掴めずに終わってしまった。 どこに居るんだお前、と胸の内で問いかける。それは決して本人には届かないと分かっていながらも、そうせずにはいられない。 押しかけてくる赤木に対してあれだけ愛想悪く接してきたくせに、姿を見せなくなった途端にこんな情けない有様だ。 これから一体どうすればいいのか。渡せなかったマッチ箱も、そして自分自身も。 「好き勝手に人を振り回しておいて、何がしたかったんだ」 赤木という色を失った空虚な部屋での生活は、考えるだけで味気ないものだった。 これが本来あるべき状態で、夜の街で再会する前の日々に戻っただけなのに。 単なる暇潰し目的で近づき、それが満たされたから姿を見せなくなったのかもしれない。 気まぐれな赤木なら、充分に有り得る話だ。 「馬鹿にしやがって!」 忘れるべきだ。もう戻ってこないものを求めていても、空しさばかりが積もって身動きが取れなくなる。 これ以上、傷が深くなる前に。 錆び付いたアパートの階段を上りきった時、ドアの前に男が立っているのが見えた。 風に流されて届いた煙草の匂いが、ひどく懐かしかった。 やがてこちらを向いた男が、煙草を咥えたまま歩いてくる。 「久しぶり。何さえない顔してんだよ、矢木さん」 「お前、今までどこに」 「色々あってさ、あんたに会いに行けなかった」 「……待ってねえよ」 「強がるなって、実は待ってたんだろ?」 いちいち痛いところをついてくる言葉を遮るように、矢木は懐から出したマッチ箱を赤木の胸に押し付けた。 「こんなもん置いていくな、邪魔くさい」 「俺のマッチだ。あんた、これを後生大事に持ち歩いてたのかい?」 「それを届けに今日、わざわざお前の職場まで行っ……」 赤木が愉快そうに口の片端を上げたのを見て、その続きを慌てて引っ込めた。 「ふーん、あんな遠いところまで来てくれたのか。俺のために」 「うるせえ、笑うなクソガキ!」 押し付けたマッチ箱を受け取ろうとした赤木の指が、かなり冷えていることに驚く。 こんな寒い場所で、どのくらい長い時間ここに立っていたのか。 いつも通り勝手に中へ入っていれば良かったのに、今日に限って何故。 「仕事辞めたからさ、行くとこないんだよね」 そう言って赤木は矢木の手を取ると、そこに唇を寄せてくる。 絡んだ視線や、指先に感じる微かな温かさに阻まれて、追い返すことなどできなかった。 |