錯乱状態 玄関のドアに鍵をかけ、部屋のほうへ振り返ると赤木に唇を奪われた。 持っていたビニール袋を落としそうになったが、中に卵のパックが入っていることを思い出し、慌てて取っ手を握り直す。 赤木からキスされるのは珍しいことではない。 その気になればいつでもどこでも仕掛けてくるので、油断できない。 かと言って常に身構えているのも疲れるし、そういう時に限って何も起こらない。もう大丈夫だと思って安心した隙を狙われるのだ。 近所の店で夕飯の材料を買ってきて帰宅した途端にこの展開。またしても不意をつかれてしまい、どこか負けた気分だった。 「お帰り、矢木さん」 「……驚かせやがって」 「顔、赤い」 痛いところを鋭く指摘されて、矢木は無遠慮に向けられた指先を軽く払いのけた。 赤木は気を悪くした様子は見せず、薄く笑みを浮かべている。面白がっているに違いない。 「飯作っておくから、お前は先に風呂行って来いよ」 「一緒に行かないの?」 「俺は後でいい」 家賃の安いこの部屋には風呂がついていないため、いつも銭湯の世話になっている。 今は、何となくひとりになりたかった。こうして家に帰れば赤木が居て、落ち着ける暇はほとんど無い。 しかし、工場の仕事を辞めて住むところを失った赤木をこの家に置くことを決めたのは自分なので、今更あれこれ文句を言うのは筋違いだ。 「俺とは行きたくない?」 「別に、そんなことねえよ」 「じゃあ、何も問題無いってことで」 飯の支度なら後で手伝うからさ、と囁かれた。人の気も知らずに。 何故か今日に限って、赤木はやたらと食い下がってくる。 「ガキじゃあるまいし、銭湯くらいひとりで行けって」 「……あんた、鈍感すぎ」 突然抱き付いてきた赤木が、胸元に頬を寄せて身体を密着させる。 背に両手をまわされ、簡単には逃げられない。明らかに動揺していると分かる、乱れた心臓の音を聞かれそうだ。 矢木も同じようにして、赤木を強く抱き締める。首筋に唇を落とすと、赤木は息を詰めた。 ここに触れるとかすかに反応を示すことを、密かに知っている。本人に自覚があるのかどうかは分からないが。 「赤木……もう、いいだろ」 こうすれば、赤木も納得して行ってくれるかもしれない。 そう思って腕を緩めた時、顔を上げた赤木と目が合った。 口元は笑っているが、その目は射抜くようなものになっている。矢木の心の奥まで。 「何言ってるの」 「なに、って」 「ここまでしておいて突き放すのって、ひどくない?」 赤木はそう言うと、畳に両膝をついた。胸に走った良くない予感通り、ベルトの金具が外されズボンの前を開かれる。 「ちょっとお前、待っ……」 焦って逃れようとすると、背後の壁に空しく阻まれた。 どうすることもできないでいるうちに、下着から昂ぶった性器が抜き出される。 直に手で触れ、すでに固くなっているそこに顔を近づけてくる赤木を、矢木は必死で制した。 「やめろよ……汚ねえだろ、そんなとこ」 「何を今更、初めてでもないのに」 確かに、以前にも同じことをされた記憶がある。 あの頃はまだ、赤木に対して心底から警戒していた。また酷い目に合わされそうで、そばに居られるだけで気力を削り取られていく気分だった。 それでも抵抗しきれなかったのは、かなり酔っていたからだ。どこからか持ってきた高い酒を、赤木に飲まされたのだ。しかも大量に。 覚えている限りでは口でいかされただけだが、もしそれ以上のことを赤木にしていたらと考えると恐ろしくなる。 馴染みの飲み屋で酔って翌朝、目が覚めたら隣に裸の女が……という、お約束のパターンよりもタチが悪い。 「まだ風呂にも行ってねえし、だから」 「汚くなんかないさ。あんたの匂い……好きだよ」 苦しい言い訳も通用しないまま、浮かんできた透明な先走りの滴を舐め取られた。 赤木の舌先が、じらすようにゆっくりと下から上へたどっていく。 深く咥えこまれるたびに根元から力を増していき、限界まで巧みに導かれる。 正直、こうして壁にもたれて立っているのも辛い。赤木の口の中で達するのを我慢したいのかしたくないのか、 それらの間で頼りなく揺れる。 「一緒に気持ち良くなろうか……矢木さん?」 矢木は深く息をつくと、自分も膝を折って赤木に目線の高さを合わせる。 そして赤木を再び抱き締め、ふたりで畳に倒れこんだ。 再び外へ出ると、すっかり真っ暗になっていた。 未だに夕食の支度もしておらず、買ってきた食料も台所に置きっ放しだ。 やることはたくさん残っている。それを考えると急に気が重くなった。 「そういえば、どのくらいやってたっけ」 「……2回だろ。俺は疲れた」 「矢木さんのほうが激しく動いてたんだから、それも当然か」 「ばかっ、声でかいぞ」 「どうせ誰も聞いてないって」 他にも住人が居るアパートの階段を降りながら、随分と呑気なことを言われた。 もう動きたくなかったが、ふたりとも身体が汚れてしまったので結局は銭湯へ行かなければならない。 あれから赤木の中で1度達した後、裸で戯れているうちに少しずつ気持ちを煽られて、2度目は赤木の腹の上に精を放った。 お互いの汗が混じり合って、どちらのものか区別がつかなくなるくらいに身体を重ねた。 相手との年の差が20年もあることを忘れていた。疲れきった矢木とは逆に、赤木はまだ平気な顔をして隣を歩く。 しかも事後のほうが生き生きとしているようにも見えた。羨ましい。 2度目に達する直前、矢木が性器を引き抜いた瞬間に上がった、赤木の小さな喘ぎ声をまだ覚えている。しかし聞き違いかと思った。 赤木は最中でもめったに声を上げないからだ。 いつもは震えるような息遣いだけが、素直に感じていることを明らかにしていた。決して演技ではないと信じたい。 普通に歩いている時でもそれを思い出してしまって、恥ずかしいような情けないような。 急に歩みを止めた赤木が、矢木の正面に立つ。どこか穏やかな表情で。 「下手に拒んだり逃げたりするより、楽しかっただろ?」 赤木の言葉に、何も言えなくなる。 確かに身体は疲れているが、心は充分に満たされたのだ。 あんなにみっともなく取り乱して。 あんなに奥深くまで求めて。 こんなに……好きになってしまった。 言葉にすれば笑われそうな想いを胸に押し込んだまま、矢木は赤木の頬に触れる。 そして淡い月明かりの下でゆるやかに目を伏せる、その顔に唇を寄せた。 |