夕暮れの海に想いは響く 1歩進むたびに、足が砂に埋まる。 数メートル先の赤木は、そんな不自由さを全く感じさせない調子で歩いていく。 時期外れの海は肌寒い。そもそもこんな季節に海へ行こうなどとおかしなことを言い出したのは赤木で、 久しぶりに昼寝をしている最中に強引に起こされたのだ。 矢木にとっての海とは、少しでも涼しくなりたい真夏にしか用がないものだ。 なのに赤木は、どういうつもりで海へ来たくなったのだろう。さすがは狂気の男、スケールが違う。 ここまでたどり着くのに、かかった時間は車で約1時間ほど。運転している最中、赤木が代わってやろうかと言ってきた。 しかし赤木が運転免許を持っているとはどうしても思えず、それに何かの気まぐれで断崖へ向けてアクセルを踏まれてはたまらないので、 きっぱりと遠慮しておいた。 「おい赤木、どこまで行くんだ」 「なんだ、もう帰りたくなったのか。だらしないな」 「そんなんじゃねえよ。大体、こんなとこに何の用がある?」 「さあね」 煙に巻くような赤木の返事に苛立ちかけた時、冷たい潮風が吹いてきた。 その寒さに思わず小さく身を震わせながら歩いていると、赤木が突然立ち止まる。 「矢木さん、上着」 「は?」 「寒いから上着貸して」 振り向きざまに平然とそう言う赤木は、いつものシャツ1枚の姿だ。 上着を羽織っている矢木とは比べ物にならないほど寒いに違いない。わざわざ本人に訊かなくても分かる。 ……が、やはり納得行かない。この季節の海が寒いことは誰でも知っているはずで、なのに準備をしてこなかった赤木が悪い。 「それともあんたが温めてくれるかい? 今ここで俺を抱い」 「上着ならいくらでも貸すから本当にそれだけは勘弁してくれ赤木」 赤木の言葉を遮るように一気にまくしたて、上着を脱いで手渡す。 長身で肩幅が広い矢木の上着は、赤木にはかなり大きいようだった。 明らかに裾や袖が余っていて、たとえ遠目からでも不自然に映るだろう。 それを見ているうちに、あることに気付いて小さく声を上げた。 「何、どうしたの」 「車に財布忘れてきた。お前はこの辺で待ってろ」 「それなら俺が取りに行ってこようか。上着も借りてることだし」 「置いた場所は分かるか?」 「ああ、乗った時からずっとあんたを見てたから大丈夫」 矢木から車の鍵を受け取った赤木は、意味深な言葉と笑みを残して引き返していった。 規則正しく繰り返される波の音を聞きながらぼんやりしていると、いつの間にか20分ほど経っていた。 もうそろそろ戻ってきてもいい頃だ。しかし振り返っても赤木の姿は全く見えない。 広い砂浜に1人で残されている今、どうすればいいか分からない。 こんなことになるなら、財布のことなど言わなければよかった。大金が入っているわけでもないので、車に置いたままでも 別に問題はなかったのだ。 時間が経つにつれてじわじわと心が乱されるのは、赤木がいつまでも戻ってこないから心細いとか、 もしかしたら妙な連中に絡まれているのではないかと不安になっているとか、決してそのようなことはない。 あるわけがない……認めたくない。 自身を落ち着かせるために吸おうと思った煙草は、赤木に貸した上着の中だ。 淡い夕焼け色に染まっていく空を眺めながら、大きくため息を落とす。 「お待たせ」 声と共に、背後から肩を軽く叩かれた。 矢木の上着を羽織った赤木が正面にまわりこんできて、黒い長財布を差し出してくる。 かなり使い古されたそれは、間違いなく矢木のものだった。 「お前遅いぞ、探すのに手間取ってたのか」 「財布はすぐに見つけられたけどね。ただ……」 「ただ?」 「俺を待ってる間、落ち着きないあんたの様子が面白くてさ。しばらく観察させてもらった」 「きっ……気持ち悪い真似してねえで、早く戻って来いよ!」 そんなに落ち着きなく見えたのか。確かに冷静ではなかったかもしれないが、その様子を赤木に見られて笑いのネタになっていた かと思うと情けなくてどうしようもない。 赤木は口の片端を上げて、低く笑う。 「人を信用するな、って前に言っただろ。矢木さん」 「えっ?」 「車も上着も財布も託して、もしあのまま俺が戻らなかったら? 一文無しのあんたは寒い格好のまま、何時間もかけて 家まで歩いて帰ってこなきゃいけなかったんだぜ」 「何の話だよ、急に」 考えもしなかったことを次々に言われて、思わず眉根を寄せる。 赤木が財布を持って再びここへ戻ってくることを、矢木は全く疑わなかったのだ。 こうして赤木が戻ってきたなら尚更、余計なことを考える必要がどこにある? 「赤木、そろそろ帰るぞ」 「財布取りに行ったばかりなのに?」 「誰かが妙なことして、なかなか戻って来なかったのが悪い」 別に急いで帰らなくても良かったが、散々待たせたことに対しての仕返しのつもりだった。 赤木に背を向けようとした時、突然腕を掴まれた。そして不意打ちで唇を奪われる。 波の音が遠く感じる。言葉の全てを、唇とその微かな温もりで封じられた。 眩しい夕暮れの海辺で交わすキス。今まで付き合った誰とも至らなかったシチュエーションの主導権を、赤木に持って行かれた。 「ん……お前、こんなところで」 「気にするなよ。俺とあんたのことには、誰にも口出しさせない」 そう言い切り、赤木は矢木の首に両腕をまわしてきた。互いの距離は、一瞬で縮まる。 この身体はすっかり冷えているはずなのに、不思議にもそれを感じない。 家に帰るのは、もう少し先になりそうだ。 赤木の背中や腰を抱き締めながら、そんな予感がした。 |